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第48回 秘密兵器の馬上筒、実は大阪の陣にも登場していた

NHK大河ドラマ「真田丸」第48回では、馬上筒と呼ばれる新しい鉄砲が登場しました。ドラマの中では騎馬武者が馬上から射撃し、敵将を討ち取るために用いられる秘密兵器として扱われました。当時の銃は火縄式で簡単に連射できない構造だったため、費用の割に効果が薄いとして導入する大名は少なかったようですが、ヨーロッパでは16世紀に騎兵の銃武装が当たり前になっていたのです。

馬上射撃に備え、銃身を短く軽量化

長野県松本市にある国宝松本城。戦国時代に築かれた深志城が始まりで、五重六層の天守閣が現存するものの中で日本最古として知られています。その天守閣2階には、松本城鉄砲蔵と称し、戦国時代から江戸時代に用いられたさまざまな火縄銃が展示されています。

その中に馬上筒も並んでいます。全長51センチ、銃身長28センチ、口径14ミリ、重量700グラム。思いのほか銃身が短く、ライフルと拳銃の中間のような形です。銘はなく、どこでだれが製造したものかは分かりません。

戦国時代から火縄銃の産地として知られた近江(今の滋賀県)国友産の火縄銃も展示されていますが、そちらは銃身長96センチ、重量4キロです。それに比べ、馬上筒は銃身の長さが3分の1以下、重量がざっと6分の1。銃身を短くすることで、軽くして馬上で発砲しやすくしていたようです。

銃身を短くすると、命中精度や射程距離、威力が落ちると考えられています。しかし、当時の火縄銃は銃身の中にライフリングと呼ばれるらせん状の溝を掘っていなかったため、命中精度はそれほど良くありませんでした。このため、銃身を短くすることに大きな抵抗はなかったのでしょう。

700グラムの重さなら不安定な馬上でも射撃が可能です。馬上で停止した武者は敵の鉄砲からすると格好の標的になります。このため、命中精度より移動しながら撃てるように銃身を短くしたと考えられています。ただ、馬上の高い位置からの射撃は敵兵を威圧するのに効果があったとされます。

費用がかさむことも普及しなかった理由の1つ

近世ヨーロッパの兵科の1つに竜騎兵があります。詳しい定義は各国によってさまざまですが、おおむねドラグーン・マスケットといわれる小型のマスケット銃を装備し、16世紀に登場しました。

最初のころ騎乗は移動のときだけで、戦闘になると下馬して戦っていました。このため、ほとんどの国が騎兵としてではなく、乗馬歩兵として扱っていたのです。しかし、やがて滅多に下馬せず、騎乗のまま銃を発射するように進化していきます。ロシアやフランスでは軽騎兵、オーストリアでは重騎兵として扱われるようになりました。

日本に馬上筒がいつごろ渡来したのかははっきりしませんが、安土桃山時代になると豊臣秀吉配下の加藤清正や、奥州の戦国大名伊達政宗が騎兵に銃を装備させています。

もともと鉄砲は他の武器に比べて高価な品です。馬上で発砲するとなると、よく鍛えられた名馬に乗らなければ馬が暴れてしまいます。揺れる馬上での射撃はかなりの技術が必要なうえ、鉄砲と名馬の双方を用意しなければならず、費用がかさむことも普及が遅れた理由でしょう。

大阪夏の陣では伊達政宗が騎馬鉄砲隊を編成

政宗の騎馬鉄砲隊は騎馬隊の前衛に鉄砲を装備した武者を配置し、一斉射撃で敵が崩れたところを、槍を装備した後ろの騎馬隊が突撃する戦法だったようです。政宗は騎馬鉄砲隊を引き連れ、大阪夏の陣に徳川方として参陣しています。

伊達軍はまず、道明寺の戦いで後藤基次の部隊と交戦しました。基次は巧みな戦術で徳川方の大軍を苦しめていましたが、片倉重長率いる伊達軍の騎馬鉄砲隊の活躍もあり、打ち破られます。基次は戦死しました。

さらに進撃したところで待ち構えていたのが真田幸村の軍勢でした。幸村は伏兵して接近戦に持ち込むことで騎馬鉄砲隊の弱点を突きます。片倉重長は敗走寸前まで追い込まれる完敗を喫しました。

幸村は徳川家康の本隊に突撃後、討ち死にします。大勢が決まったあと、豊臣方の軍勢は大阪城へ退却していきました。このとき、政宗は追撃をさせませんでした。兵の疲労が理由だったといわれていますが、本音は真田勢の伏兵を恐れたからとも伝えられています。



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