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第46回 戦国時代の日本に持ち込まれた大砲、炸裂せず限定的な効果しかなかった

NHK大河ドラマ「真田丸」第46回で、大阪城を包囲した徳川方の軍勢から大砲が撃ち込まれるシーンがありました。1発が大阪城本丸に命中し、冬の陣の和睦に向けて事態が進むことになるのですが、戦国時代に渡来した鉄砲が戦の姿を一変させたのに比べ、大砲はそれほど普及しませんでした。実際の戦場で活躍した場面もそれほど多くありません。なぜ戦国大名は大砲を使いこなせなかったのでしょうか。

西洋の城壁破壊には抜群の効果

カタパルトやバリスタなど機械の力を使って弾丸を放出する装置は古代からありましたが、火薬を使った本格的な大砲が歴史上、初めて登場したのは、13世紀の中国南宋だったとされています。

この技術が中東やヨーロッパに伝わると、各地で大砲が盛んに作られるようになりました。主に攻城用でしたが、中央アジアのティムール帝国や小アジアのオスマン帝国軍が積極的に活用しています。

当初、弾丸は石でした。しかし、これが鉛や鉄になると、城壁を破壊する威力を増します。当時、西洋や中国は街を巨大な城壁で囲み、外敵の侵入を食い止めていました。城壁の破壊には鉄や石の弾丸は最適だったのです。

中世のヨーロッパで難攻不落の城塞として知られる街がありました。今のトルコ・イスタンブールです。古代から生き残ったビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都で、当時はコンスタンティノープルと呼ばれ、中世ではヨーロッパ最大の都市でした。

最後は都市国家のような状態まで衰退していましたが、街は幅20メートルの堀の後ろに高さ10メートルと17メートルの二重の城壁があり、イスラム帝国やオスマン帝国など敵の大軍に再三囲まれても落ちることがなかったのです。しかし、その要害の地も1453年、オスマン帝国の砲撃で攻略されました。

水上戦や攻城戦では一定の効果

日本に持ち込まれたのは、1576年に豊後(今の大分県)の戦国大名大友宗麟がポルトガルの商人から購入したのが最初といわれています。ひと足早く日本に持ち込まれた火縄銃を大型化したような構造で、宗麟は「国崩し」と命名しました。

鉄の弾丸に進化しても、命中精度は低く、直撃しなければ殺傷能力はありません。石や鉄の大きな弾丸を打ち込むだけで、現代の大砲のように炸裂することがなかったからです。大河ドラマで大爆発とともに炸裂しているのは演出なのです。

高価なことから、有力大名でないとなかなか使用できませんでした。関ケ原の合戦では徳川家康や石田三成が戦場に持ち込みましたが、大音響で敵を驚かせる程度の効果しかなかったようです。使った側も敵を驚かせて接近戦を有利に持ち込むために使用する腹積もりだったと考えられています。

日本の城郭自体も大砲には比較的強い構造でした。城壁や木造の櫓、天守閣は直撃を受けると破壊されますが、土塁や石垣のような構造は着弾の衝撃に強い性質を持つからです。朝鮮の役で日本軍が築いた城は明国軍の砲撃をしのぎ切りましたが、こうした構造も影響したと考えられています。

水上戦には一定の効果を上げたようです。当時の軍船は大半が木造船です。船体に大砲が当たれば、簡単に沈めることができます。ただ、連射はできませんし、命中精度が悪いので、後の時代の艦隊戦やカリブ海の海賊船のような派手な撃ち合いはできませんでした。

大阪の陣で家康の狙いは心理的効果

大砲が最大の効果を上げたのは、大阪冬の陣だといえるでしょう。真田丸の攻防戦で手痛い敗北を喫した後あと、徳川方は大阪城を攻めあぐねていました。それを和睦に持ち込み、和睦の条件として堀を埋めてしまったからです。

堀がなくなれば、大阪城の防御機能は大きく低下します。結果として外堀だけでなく、内堀まで埋められてしまいますから、これでは裸城も同然。とても大軍に対抗するすべなどありません。

天守閣を直撃した砲弾で淀殿の侍女が死亡したとされています。しかし、人的被害はその程度です。大阪城の防備にはそれほど大きな影響はありません。例え天守閣が倒壊したとしても精神的なダメージ以外、防御態勢に問題はなかったのです。

最大の効果を上げたのは大音響だったといわれています。大砲の音に恐怖心を感じた淀殿が和睦に傾いたようです。心理戦を仕掛け、有利な形で和睦に持ち込もうとする家康の思惑に淀殿がはまってしまったように見えます。

高価なうえにさして大きな効果を上げられず、火薬や弾丸の調達が大変だったことから、当時の日本ではそれほど大砲が普及しなかったわけですが、大阪の陣からしばらくしてヨーロッパで炸裂する大砲の弾丸が登場します。

しかし、日本はこのころ、太平の世となり、鎖国を続けていました。本格的な現代型の大砲が登場するのは幕末になります。



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