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第45回 出城を戦術的に活用、真田丸のルーツは武田家にあった

NHK大河ドラマ「真田丸」第45回では、真田幸村が大阪城南側に築いた出城の真田丸で激しい攻防戦が繰り広げられました。この種の防御施設は戦国時代、本城の守りを強化するため、しばしば設けられていました。特に幸村のルーツともいえる甲斐(今の山梨県)の武田家は、各地の城に馬出(うまだし)といわれる防御施設を置いています。見晴らしが良好で敵の動きをすぐに察知でき、攻撃しやすい場所に誘い込む戦術で、攻め手に大打撃を与えようとしていたのです。

虎口を守る工夫が東日本では馬出に

出城は本城を守るように配置され、枝城、出曲輪とも呼ばれていました。接近する敵を効率よく攻撃できる構造で、出城の中から弓や鉄砲を放つほか、敵が崩れだすとすかさず討って出られるようになっています。

攻城戦で攻め手は虎口と呼ばれる出入り口に殺到します。これを防ぐため、戦国時代には虎口の守りを固めるさまざまな方策が考えられました。その1つが桝形虎口といわれるものです。西日本の城でよく見かけることができます。

虎口の外側や内側に方形の空間を設け、2重に門を構える構造です。桝形虎口へ敵が侵入すると第2の門で防ぐ間に、周囲から一斉攻撃を浴びせるのが狙いになります。城の内部へ容易に侵入させない構造として普及していきました。

これに対し、東日本では桝形ではなく、半円状の防御施設を外に張り出す形が発展しました。一般に馬出と呼ばれています。半円の周囲に土塁や石垣を設け、出入りする場所を残して周りに堀を巡らせる曲輪です。

武田家では甲斐の新府城、駿河(静岡県東部)の深沢城、遠江(静岡県西部)の諏訪原城、信濃(長野県)の大島城などでこの構造を用いていました。新府城は幸村の父真田昌幸が築いたものですから、幸村も熟知していた構造だったでしょう。

真田丸の構造は武田家の馬出を大型化

真田丸も武田家伝統の馬出の構造を利用しています。真田丸は大阪城南側に突き出すような形で高台に築かれ、東西180メートルの半円形だったと伝わっています。ただ、遺構が残っておらず、もっと大きかったという説もあります。大阪城の大きさに合わせ、規模を大きくしたため、単なる馬出ではなく、出城と呼べるほどになったわけです。

三方に堀や塀を配していました。さらのその外側には3重の柵。後方に大阪城への通路があり、虎口は両サイドに置かれています。敵兵がここへ向かうと、真田丸と大阪城の両方から一斉射撃できるようになっていました。

真田丸ではざっと1,000人が射撃可能だったとみられます。これに本城側からの射撃を加えると、どれだけの大軍を擁していたとしても簡単に近づくことは不可能です。もはや単なる防御陣地ではありません。

しかも、真田丸を総がかりで攻めようとすると、大阪城から横あいをついて攻撃されます。逆に真田丸をスルーして大阪城に攻撃しようとすると、真田丸から側面攻撃を受けます。敵に自由な行動をとらせず、側面攻撃が可能な陣地を軍事用語で側面陣地と呼びますが、真田丸はそのセオリー通りに構築されていました。

幸村は文字通り防御と反撃に適した真田丸を使って攻め手の大軍を蹴散らそうとしたのです。出城を使って野戦を仕掛ける発想に近かったのかもしれません。戦術的に考え出された出城が真田丸だったといえるでしょう。

真田丸の攻防戦は幸村に凱歌

攻め手から見ると、真田丸は大阪城の南側に設けられた孤立無援の出城のように見えたはずです。関ケ原の合戦から14年が過ぎ、徳川方には初めて戦場におもむいた将兵が少なくありません。しかも、2倍以上の大軍が城を囲んでいるわけですから、勝敗が既に決したと思い込み、功を焦って攻めかかってくる可能性はあります。そこが幸村の狙いでした。

真田丸に入った幸村の軍勢は5,000人ほどと推計されています。幸村の目論見通りに巧みな戦術におびき寄せられ、加賀(石川県南部)の前田利常、上野(群馬県)の井伊直孝、越前(福井県東部)の松平忠直らが、次々に攻めかかってきました。総兵力はざっと2万6,000人とみられています。

しかし、城壁に取り付いたところで真田丸と大阪城から一斉射撃を受けました。攻め手の各部隊は大混乱に陥ります。後方から次々に味方が押し寄せて退却もままならず、大損害を被りました。死傷者数は諸説あり、はっきりしませんが、1万人以上という説も出ています。

その後、徳川家康はむやみに攻めかかるのを禁じ、城外から大砲を撃ち込むなど、城兵の士気をくじく戦術を取ります。局地戦とはいえ、幸村に痛恨の敗北を喫し、警戒を強めたからです。ただ、真田丸での敗北が戦局に響かないだけの大軍を擁していたことが、家康の救いでした。



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