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第44回 幸村隊がそろえた赤備え、武田騎馬軍団の流れをくむ戦国最強の証

NHK大河ドラマ「真田丸」第44回では、真田幸村の部隊が赤備えの甲冑に統一する場面が登場しました。赤は戦場で最も目立ち、部下の士気を高めるのに効果がある色ですが、大阪の陣では徳川方の井伊直孝隊も赤備えの武具で統一しています。ルーツをたどれば、行き着く先は、ともに戦国最強とうたわれた甲斐(今の山梨県)の武田信玄です。信玄の流れをくむ武将と兵士が両陣営に分かれ、赤備えで対決したことになります。

ルーツは武田家の名将飯富虎昌と山県昌景

当時の赤色は辰砂という鉱物で出されていました。辰砂は高級品で、甲冑をはじめ旗指物などすべて統一するのにはかなりの経費がかかったようです。しかし、戦場でこの上なく目立つため、敵を震え上がらせ、味方の士気を上げるのには効果的でした。

最初に赤備えで戦場に出たのは、信玄がクーデターで実父の信虎を追放して家督を握ったころから重臣を務めてきた飯富虎昌とされます。虎昌は信玄の嫡男義信の守り役を務めるなど信玄の信任が厚く、川中島の合戦など多くの戦いに赤備えで出陣しました。

戦ぶりは勇猛で、「甲斐の猛虎」とも呼ばれ、赤備えの飯富隊の突撃に敵は震え上がったといわれています。

虎昌は義信の謀反に連座して処刑されます。その後を継いだのが弟の山県昌景です。昌景は武田軍でも最強といわれた名将で、後に武田四天王の1人に数えられました。飛騨(岐阜県北部)侵攻では指揮官を務めたほか、若いころは主に信玄の側近として働いていました。

譜代家老衆に列せられ、300騎持ちの対象となってからは、上野(群馬県)の箕輪城攻防戦、相模(神奈川県南部)の小田原城攻めなどに赤備えの軍勢を引き連れて参陣しています。三方ケ原の戦いでは徳川家康、織田信長の連合軍を打ち破る功績も上げました。

武田勝頼の代になって、長篠の合戦で討ち死にしましたが、江戸時代に書かれた信長の伝記「信長公記」では、信長が昌景の武勇を認め、恐れていたことが記されています。

幸村は自分のルーツを意識して赤備えを着用

江戸時代に書かれた武田家の軍学書「甲陽軍鑑」によると、虎昌や昌景のほか、武田信豊、浅利信種、小幡信貞の3人も信玄から赤備えを許されていました。いわば赤備えは武田家の精強部隊の代名詞だったともいえるでしょう。

虎昌や昌景が活躍した時代、幸村はまだ登場していませんが、祖父の真田幸隆、父の昌幸は武田家の同僚でした。幸村も自分のルーツが武田家にあることは承知していますから、かつての猛将にあやかろうという気持ちが出ても不思議ではありません。

しかも、大阪の陣で相対するのは家康です。野戦の名手といわれた家康が生涯で唯一、壊滅的な敗北を喫したのが三方ケ原の戦いです。このとき、家康は部下を見捨てて命からがら浜松城まで逃亡しました。この際、武田の赤備えに恐怖を感じたことは間違いありません。

幸村はそれまで赤備えの装備で出陣したことはなかったようですが、家康に三方ケ原を思い出させて震え上がらせようとしたことも、十分に考えられるでしょう。

旧武田家臣を招き入れた井伊直孝も赤備えで出陣

武田家が滅亡したあと、その所領は家康の支配下に置かれました。家康は戦国最強といわれた武田遺臣を積極的に登用し、軍略にも武田流を採り入れました。その中で最も多くの武田遺臣を配下に抱えたのが井伊家でした。

井伊家はもともと今川家に従っていた遠江(静岡県西部)の豪族ですが、今川家の衰退後は家康の家臣となりました。直孝の父直政は昌景の遺臣を多数抱え、家康を支えた人物です。

小牧長久手の合戦、小田原城攻め、関ケ原の合戦などに赤備えで出陣し、「井伊の赤鬼」と恐れられました。直孝も父同様に赤備えの部隊で大阪の陣に参戦し、井伊家の武勇を見せつけようと張り切っていたことでしょう。

しかし、大坂冬の陣では幸村の挑発を受け、真田丸に突撃し、500人もの死者を出す惨敗を喫しました。赤備え対赤備えの戦いは知略に勝る幸村にいったん、凱歌が上がることになったのです。



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