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第43回 幸村が軍議で打ち出した積極策、少兵で大軍に当たるその狙いとは

NHK大河ドラマ「真田丸」第43回では、真田幸村が軍議の席で積極的な迎撃策を打ち出しました。豊臣家に浪人を加えても、兵力はざっと10万人。これに対し、徳川家康率いる軍勢は少なくとも20万人と推定されていました。野戦で兵力が倍以上になると、正攻法で勝つのが難しいのは常識です。それなのに、幸村はなぜ積極的に打って出ようとしたのでしょうか。

勝ち目が見えない幕府相手の籠城戦

籠城策を取った場合、徳川方の全軍が大阪城に集まってきます。巨大な大阪城に10万人もの将兵が立てこもれば、そう簡単に落ちることはないでしょう。しかし、膠着状態に陥ったとすれば、援軍を期待できない豊臣軍の不利は否めません。

まず考えられるのは兵糧切れです。豊臣方は諸大名の大阪屋敷や堺で兵糧を調達しましたが、周囲を完全に取り囲まれれば、これ以上兵糧を運び込むことはできません。10万人もの大軍が籠城している以上、兵糧の尽きるのは速くなります。

本願寺顕如ら門徒宗は織田信長の攻囲軍に対し、石山本願寺で4年にわたって籠城しましたが、籠城した兵士の数は大阪の陣よりずっと少なく、中国の毛利軍が兵糧を海路、運び込んでいました。大阪の陣ではこうした援助が期待できません。城内の兵糧が尽きればそれで終わりとなるのです。

籠城兵の士気低下も心配されます。豊臣秀吉の北条攻めでは、北条軍が小田原城に4万とも5万ともいわれる大軍で籠城しました。しかし、城内の足並みが乱れて将兵の士気が低下、降伏せざるを得ない状況に追い込まれました。

大阪城に篭った将兵の多くは浪人です。豊臣家への忠誠心で入城したというより、浪人暮らしに嫌気がさし、一か八かの大勝負に出たものも少なくありません。いわば烏合の衆なわけですから、不安や内輪もめから士気が低下することは容易に予想できます。

戦国時代の籠城戦では、城を大軍で包囲した側の兵糧が尽きることもありましたが、全国を統一した秀吉や家康の時代になると、その不安はほとんどなくなっています。勝ち目は見えないわけですから、長期戦になると兵の士気はなおさら下がってしまうのです。

緒戦で勝利を重ねれば徳川方の士気をくじくことも可能

幸村が打って出ると考えた背景には、援軍を生むことがあります。徳川の天下はほぼ盤石といえども、天下取りの野心を胸に秘めた伊達政宗や徳川に恨みを抱く毛利輝元、上杉景勝ら戦国の生き残りが健在です。豊臣家の恩顧を受けた黒田長政、福島正則、加藤嘉明らも生きていました。

彼らは徳川と豊臣の兵力差から勝負にならないとみて、幕府に従っています。しかし、豊臣方が緒戦で勝利を収め、勝敗がどっちに転ぶか分からないとなれば、対応を真剣に考え始めるでしょう。そのために徳川方の態勢が整う前に打って出ようとしたわけです。

籠城戦で局地的な勝利を収めても、やむなく幕府に従っている諸大名の心を動かすだけのインパクトはなかなか期待できません。それよりも京都を制圧するとか、幕府方の城を落とす方が大きな衝撃を与えられるというわけです。

大阪の陣に際し、徳川方は家康が先発して上方に入り、後から遅れて将軍の徳川秀忠や諸大名の軍勢が結集しようとしていました。各個撃破に成功すれば、豊臣方の士気が上がり、徳川に従う諸大名の心に動揺が走ります。

一見するとかなり無謀な作戦のように見えるかもしれませんが、豊臣方がどのようにして勝利をつかむかを考えると、かなり理にかなった作戦といえるでしょう。

戦場分散のゲリラ戦で局地的勝利を期待

戦場をあちこちに分散して徳川方の全兵力を1カ所に集めない狙いもありました。想定される戦場は京都のほか、近江(今の滋賀県)、大和(奈良県)、伊勢(三重県)といったところになるでしょう。

軍勢を結集して1カ所で戦えば、兵力の差がものをいいます。しかし、ゲリラ戦を展開して戦場を分散すれば、局地的な勝利を重ねることも十分に可能です。

徳川方の一部が強引に大阪城を包囲しようと押し寄せても、大和や近江に豊臣方の軍が健在なら、補給路を遮断することができます。徳川方もうかつに強行作戦を取れないわけです。

ゲリラ戦で一進一退の攻防を続けていれば、幕府に従った諸大名に動揺が走り、幕府に従わなくなる可能性も期待できます。誰が烏合の衆をまとめ、適切な指揮を執るかという懸念はありますが、勝算のない籠城戦よりはずっと現実味があると幸村は考えたはずです。



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