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第42回 巧みな世渡りで3度の危機を克服、信長の弟織田有楽斎の処世術とは

NHK大河ドラマ「真田丸」第42回では、俳優、司会者として活躍している井上順さんが演じる織田有楽斎が登場しました。織田信長の弟で、千利休に茶道を学び、利休十哲に数えられる茶人です。東京の有楽町は彼の江戸屋敷があったことから、その名前がつきました。大阪の陣では豊臣秀頼の後見人として大阪城にいたわけですが、人生3度の危機を巧みな処世術で乗り切り、子孫は江戸時代まで大名として家名を残しています。有楽斎の人生をたどってみましょう。

本能寺の変で二条御所から命からがら逃亡

有楽斎は織田信秀の十一男に当たり、兄の信長とは13歳離れています。本名は長益で、通称源五郎。若いころのことはよく分かっていませんが、信長の嫡男信忠の旗下にあり、尾張(今の愛知県西部)知多郡を所領としていました。

信忠に従い、甲斐(山梨県)の武田攻めに従軍し、信濃(長野県)の鳥居峠攻略や深志城の受け取り役を務めたことが記録に残っています。武田勝頼を滅ぼしたあとは、森長可らとともに上野(群馬県)にいた武田の旧臣小幡信貞を降伏させました。

信長の弟で一門衆の一角を占めていましたが、信長の時代にそれほど重く用いられることはありませんでした。若いころから茶をたしなみ、茶人としてそれなりに知られていたようですから、武将より茶人と見られていたのかもしれません。

そんな有楽斎に最初のピンチが訪れたのは、本能寺の変です。明智光秀の謀反で信長が横死したとき、有楽斎は信忠とともに京都の二条御所にいました。信忠が明智勢に囲まれて自害する中、有楽斎は二条御所を脱出、美濃(岐阜県南部)まで逃れます。

安土桃山時代末の文禄年間に書かれた諸国話「義残後覚」では、都人が有楽斎のことを「人でなし」とそしったことが書き残されています。自害した主の後を追わず、命からがら逃げたことが、武士らしくないと受け止められたようです。

信雄没落後は剃髪して秀吉の御伽衆に

このあと、有楽斎は信長の次男信雄に仕えるようになります。検地奉行などを務めていたことが記録に残っています。小牧長久手の戦いで信雄、徳川家康の連合軍が豊臣秀吉と戦うと、家康に助力しました。戦後は家康と秀吉の和睦の仲介役を務めています。このほか、秀吉と対立していた信長の旧臣佐々成政と秀吉の仲も取り持ちました。

天下は秀吉の時代に移ります。信雄は秀吉に従い、家康や北陸の前田利家、中国の毛利輝元らと並ぶ大大名となりました。有楽斎はこの時期、千利休に茶道を学び、茶人としての名前を高めていきます。家中でも甥の信雄を支え、順風満帆の時期でした。

しかし、2度目のピンチが訪れます。小田原攻めのあと、信雄が国替えを承知せず、取り潰されたのです。この際、有楽斎はまた変わり身の早さを披露しました。剃髪して出家し、有楽斎と称します。

さらに秀吉の相談相手、話し相手となる御伽衆に加わり、摂津(大阪府北部)に2,000石の所領を与えられました。姪で秀吉の側室淀殿の後見役的な立場を務め、鶴松出産に立ち会っています。またも危機を巧みな処世術で乗り切ったわけです。

大阪冬の陣では穏健派として和睦に尽力

秀吉の死後は家康の接近し、家康と前田利家が一触即発の危機になったときは、家康のもとへ駆けつけて警護しました。関ケ原の合戦でも東軍に属し、わずか450人ほどの兵力ながら奮戦を重ね、石田三成配下の猛将蒲生頼郷を討ち取っています。

この働きが家康に認められ、大和(奈良県)で3万2,000石の大名に取り立てられました。嫡男の長孝も武功を上げ、美濃に1万石を与えられています。信長の嫡孫織田秀信が西軍につき、取り潰されましたから、大名としての織田家を復活させたことにもなるわけです。

しかし、戦後も淀殿、秀吉の後継者秀頼の後見人として大阪城へ出仕を続けました。大阪の陣に際しては穏健派として豊臣家を支え、家康との講和の道を模索します。冬の陣のあと、和睦が成立すると、家康に人質を差し出し、幕府と豊臣家の仲立ちをしようと努めました。

しかし、再び対立が激化すると、穏健派の有楽斎は強硬派から家康に内通していると疑いをかけられます。やがて有楽斎は「誰もいうことを聞かない」という理由で夏の陣直前に大阪城を退去しました。

人生3度目の危機でしたが、結果的にはまたしても変わり身の早さを発揮したことになります。しかし、そのおかげで織田家は取り潰されることなく、江戸時代を通して生き残ることができました。大阪城退去後は京都で茶人として趣味に生きています。



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