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第41回 大阪冬の陣勃発、そのとき豊臣恩顧の大名はどうした?

NHK大河ドラマ「真田丸」第41回では、真田幸村がついに大阪城へ入りました。いよいよ徳川家康が率いる大軍を相手に真田丸での戦いが始まるわけですが、豊臣恩顧の大名の多くが徳川方、豊臣方のいずれにも参戦せず、江戸にとどめられています。徳川幕府から江戸留守居役を命じられたためです。徳川幕府と豊臣家の板挟みの中、彼らはその間どうしていたのでしょうか。

豊臣恩顧の有力大名が続々と病没

1600(慶長5)年の関ケ原の合戦から1614(慶長19)年の大阪冬の陣までの間、豊臣恩顧の大名の多くが亡くなりました。豊臣秀吉子飼いの加藤清正は1611(慶長16)年、京都二条城で秀頼と家康の会見を取り持ったあと、領地の肥後(今の熊本県)へ向かう船内で発病し、やがて満49歳で病没しました。

江戸時代に成立した歴史書「当代記」では、腎虚と記されています。腎虚とは漢方医学でいう内分泌や免疫機能全般の低下による症状ですが、性病の梅毒だったという説が有力です。他に家康による毒殺、ハンセン氏病という説も出ています。

北政所の義弟に当たる浅野長政を父に持つ浅野幸長も1613(慶長18)年、領地の紀伊(和歌山県)で死亡しました。当代記の記載では梅毒だったとされています。満37歳の若さで、清正と同じ死因のため、家康による毒殺説が流れています。父の長政もこの2年前、隠居先の関東で亡くなっています。

元は織田信長の家臣で、明智光秀との山崎の合戦から秀吉に従っていた池田輝政は1613(慶長18)年、領地の播磨(兵庫県西部)で急死しました。江戸時代に書かれた記録書「駿府記」には死因を中風としています。

秀吉の盟友前田利家の嫡男前田利長は1614(慶長19)年、領地の越中(富山県)で亡くなりました。前年から病に伏せ、既に弟の前田利常に家督を譲っていました。前田利長もまた梅毒だったと伝えられています。

このうち、前田利長は生前、豊臣家の救援要請を拒否していますが、他の大名が生きていれば味方にはならなくても、幕府との仲介役を果たしてくれたかもしれません。

豊臣家を密かに支援したのは3大名だけ

大阪冬の陣に際し、家康は豊臣恩顧の大名、武将のうち、福島正則、黒田長政、加藤嘉明、平野長泰に江戸留守居役を命じました。豊臣家との関係が特に深かっただけに、戦場での裏切りを警戒したのでしょう。

このうち、賤ケ岳7本槍の1人に数えられる平野長泰は、徳川家の旗本になっていました。豊臣家の恩顧に報いるためとして家康に暇を願い出ましたが、認められずに江戸へ留め置かれました。

福島正則は籠城の準備をした豊臣方から兵糧の借用を求められ、大阪屋敷の兵糧が接収されるのを黙認しています。さらに、秀頼の重臣大野治長の使者に対し、野戦の名人の家康に籠城戦をするようアドバイスしたという説もあります。

清正の嫡男加藤忠広は徳川方として大阪へ向かいましたが、途中で和睦が成立したため、戦闘に加わりませんでした。その一方で、重臣に武器や兵糧を大阪城へ運び込ませ、密かに豊臣方を支援しています。

長門、周防(山口県)の毛利家は関ケ原の合戦で西軍の総大将を務めた毛利輝元が隠居し、嫡男の毛利秀就の代になっていましたが、輝元もまだ健在でした。秀就は徳川方に加わりましたが、家臣の内藤元盛に佐野道可と名乗らせ、軍資金と兵糧を持って大阪城に派遣しました。

豊臣家の恩義に報いようとする行動を見せたのは、これらの大名、武将だけです。それもひっそりと隠れての支援でしかありませんでした。生き残りのためにやむを得なかったのでしょう。

信之の長男、次男も徳川方で参戦

他の豊臣恩顧の大名はそろって大阪攻めに加わりました。秀吉側近の蜂須賀小六の孫に当たる阿波(徳島県)の蜂須賀至鎮は家康の養女敬台院を正室に迎え、徳川家と縁続きになっていました。

大阪の陣では、木津川口の戦いや博労淵の戦いで武功を上げ、戦後淡路(兵庫県淡路島)1国を加増されています。隠居していた父の蜂須賀家政は豊臣家からの参陣要請を「自分は無二の関東方」と称して拒絶しました。

池田輝政の嫡男池田利隆、前田利長の後を継いだ前田利常は大阪城を包囲しています。このうち、前田利常は真田丸の攻防戦で幸村から手痛い打撃を与えられることになります。

幸村の兄真田信之は病気で参陣していませんが、代わりに真田信吉、信政兄弟が大阪攻めに加わりました。しかし、豊臣方先鋒隊との戦いに敗れ、敗走しています。



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