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第40回 大阪城に集まった浪人武将、真田幸村のほかには誰が

NHK大河ドラマ「真田丸」第40回では、真田幸村(信繁)が大阪の陣に備え、大阪城へ入るよう求められました。幸村は徳川家康を相手に一戦を交えることになりますが、江戸に幕府を開いて盤石の基盤を固めつつある徳川方に対し、豊臣方には参陣してくる大大名はいませんでした。そこで、豊臣秀頼は父豊臣秀吉が残した金銀を使い、幸村ら浪人を集めたわけです。幸村以外にどんな浪人武将が秀頼のもとへ集まったのでしょうか。

知略と武略に秀でた5人衆とは

講談や小説では、浪人の5人衆とよくいわれます。豊臣方に加わった浪人武将の中で特に有名な人物です。メンバーには幸村のほか、長宗我部盛親、後藤基次、毛利勝永、明石全登が挙げられています。いずれも知略、武略に秀でた名将で、秀頼のもとで大名となる夢を持ち、大阪城に入りました。

長宗我部盛親は長宗我部元親の4男で、土佐(今の高知県)1国を治める大名でした。幸村は信濃(長野県)上田城主真田昌幸の次男、毛利勝永は豊前(福岡県東部)小倉城主毛利勝信の嫡男です。この毛利家は尾張(愛知県西部)出身で、中国地方の毛利家とは関係ありません。

明石全登は備前(岡山県南東部)宇喜多家の重臣で、宇喜多秀家のいとこに当たります。秀吉の直臣としても知行をもらっていましたが、宣教師を自分の家に住まわせて保護するほど熱心なキリシタンとしても知られ、キリシタン信仰を貫くため禁令を打ち出した幕府に立ち向かう意図もあったとみられています。

4人は関ケ原の合戦で石田三成率いる西軍に加わっています。このうち、幸村は父の昌幸とともに、信濃上田城で徳川秀忠率いる徳川軍の主力を破りましたが、関ケ原の合戦では家康率いる東軍が西軍に圧勝しました。このため、ともに改易されて浪人をしていました。

後藤基次は筑前(福岡県北西部)福岡城主黒田長政の重臣です。通称は又兵衛。長政の父黒田孝高(官兵衛)に若いころから従い、関ケ原の合戦では東軍に参加して石田三成の家臣大橋掃部を一騎打ちで討ち取る手柄を立てました。戦後は筑前大隈城主に出世しましたが、長政と折り合いが悪く、出奔して浪人になっていたのです。

改易大名や大名の子息らも続々と

5人衆以外にも多くの浪人武将が秀頼のもとへ結集しました。関ケ原の合戦で改易になった西軍参加大名やその子息が多く、その中には伊勢(三重県)桑名城主だった氏家行広、越前(福井県東部)敦賀城主大谷吉継の子ともいわれる大谷吉治、豊臣家5奉行の1人増田長盛の次男増田盛次らがいました。

豊臣恩顧の大名の子息もいます。豊前小倉城主細川忠興の次男細川興秋、安芸(広島県西部)広島城主福島正則の子ともいわれる福島正守、甥の福島正鎮らです。

石川康勝は家康の重臣で、後に秀吉に寝返った石川数正の次男。関ケ原の合戦では東軍につきましたが、兄の領地隠匿に連座して改易になっていました。仙石秀範は信濃小諸城主仙石秀久の嫡男ですが、秀久に勘当されて浪人をしていました。

このほか、秀頼の生母淀殿の実家である近江(滋賀県)浅井家の一族である浅井長房、美濃(岐阜県南部)斎藤家の家臣だった井上頼次、奥州(東北地方)伊達政宗の家臣だった山川賢信らさまざまな顔ぶれが、一旗揚げようとやってきていました。

兵士まで含めた浪人の数ははっきりしませんが、大阪冬の陣の豊臣方の総兵力は10万人ともそれ以下ともいわれています。このうちのかなりの部分を浪人たちが占めていたことは間違いありません。

現役大名で参陣したのは織田有楽斎だけ

豊臣家は家康にとって主筋に当たります。しかし、大阪冬の陣が起きたのは1614(慶長19)年。徳川幕府の設立から11年の月日が流れていました。幕藩体制は徐々に固まり、揺るぎないものになりつつありました。

これに対し、豊臣家は関ケ原の合戦後に各大名に預けていた直轄領の蔵入地が大名の改易と同時に没収されました。その結果、事実上222万石あった所領は、現在の大阪府と兵庫県東部に当たる摂津、河内、和泉3国65万石に激減し、事実上畿内の1大名になっていました。

秀頼や淀殿は幕府との一戦になれば、豊臣恩顧の大名が駆けつけると期待していましたが、駆け付けたのは織田信長の実弟織田有楽斎とその次男の織田頼長だけ。有楽斎にとって淀殿は姪に当たります。

しかし、有楽斎の所領は大和(奈良県)のうち3万2000石。名門の出とはいえ、戦力的にはただの小大名に過ぎず、幕府の大軍の前ではものの数ではありません。その結果、豊臣家は浪人を集めるしか手がなかったのです。



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