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第39回 幸村が劇中で開発する真田紐、実はチベット伝来説が有力

NHK大河ドラマ「真田丸」第39回では、紀伊(今の和歌山県)九度山に蟄居中の真田幸村(信繁)が真田紐を発案するシーンが登場しました。映画や小説の世界では、真田紐を作製して販売し、蟄居生活の費用の足しにしていたとされますが、どうやら後世の創作のようです。真田紐は幸村が生きた時代より前から日本国内で普及し、戦国大名や武将に利用されていました。茶道具の桐箱や帯締め、帯留などに使用されてきた真田紐とは、どんなものだったのでしょうか。

伸びにくくて丈夫、戦国期から武具に活用

真田紐はよく組み紐と混同されますが、組み紐が複数の縦糸を斜めに交互に組んでいくのに対し、真田紐は縦糸と横糸を機などで平たい紐状に織っていきます。最も狭いもので幅6ミリほど。世界で最も幅の狭い織物の1つといえるでしょう。

材料は主に木綿か絹を使います。同じ織物でも西陣織が横糸で柄を作るのに対し、真田紐は縦糸で柄を生みます。織り方は一重織りが一般的ですが、より強くしたいときは袋織りという特殊な織り方をしています。

伸びにくくて丈夫なのが最大の特徴。このため、重いものを吊るしたり、しっかりと物を縛ったりするときに使用されていました。主な用途は茶道具の桐箱や武具、刀の下げ緒、帯締め、荷物紐などです。

昔の武術では、敵の刀による攻撃をさやについた真田紐で受け止めて絡め取ったり、真田紐で首を絞めたりする戦法があったともいわれています。

数多くの柄が存在し、一部は家紋のように家に合わせたものになっていました。このため、現代の研究家や古美術商は個人や集団の認証、作品の真贋鑑定などに利用しています。

チベットの「サナール」がなまったという説も

組み紐はシルクロードから中国の宮中に入り、仏教の伝来とともに日本へ伝えられたことが古代の文献などから分かっていますが、真田紐の起源についてははっきりしません。ただ、チベットの山岳民族が家畜の獣毛を染めて織った細幅織物が起源という説が有力です。

この説によると、海路を通って日本へ伝わり、その途中の停泊地の沖縄ではミンサー織り、八重山諸島では八重山織、本州では木綿を草木で染めて織った細幅織物になったと考えられています。その細幅織物が発展して真田紐が登場したというわけです。

ただ、伝来時期ははっきりしません。奈良の正倉院の収蔵物に真田紐があることから、もともとはかなり古い時期に日本に伝わったとみられています。しかし、量産され始めたのは室町時代から戦国時代と考えられています。

当初は組み紐が宮中や武家でよく利用されていました。これに対し、真田紐は主に民間で使われました。戦国時代になって地方豪族や庶民出身の武将が登場するようになり、丈夫さで組み紐に勝る真田紐が武具に使用され始めたのです。伝統にとらわれず、新しいものをどんどん採り入れる戦国時代の気風が、真田紐の普及にひと役買ったことになります。

真田紐の名前はチベット周辺で紐を意味する「サナール」がなまったとも、平安時代に伝来した中国南部産の真田紐と似た織り紐が「狭織(さのはた)」と呼ばれていたことから、「さなだ」に転化したともいわれています。

豊臣びいきの上方人が真田紐を幸村伝説に

それではどうして真田紐と幸村が結びつけられ、伝承になっていったのでしょうか。戦国時代に真田紐の材料となる木綿は尾張(愛知県西部)や和泉(大阪府南西部)、紀伊など温暖な地方でしか栽培されていませんでした。

真田家の領地である信濃(長野県)や上野(群馬県)では、行商人が来なければ木綿がなかなか手に入りませんでしたが、紀伊なら簡単に手に入ります。このため、紀伊で生産された紐が全国に流通したという部分だけは、あながち嘘といい切れないのです。

全国に売り歩いた行商人が紀伊産の真田紐の強さや丈夫さをアピールするため、ちょうど九度山に蟄居させられていた幸村の父真田昌幸の勇名にあやかったのかもしれません。

徳川幕府の支配が確立した江戸時代になっても、大阪など上方の人には豊臣びいきで、徳川嫌いがたくさんいました。大阪の陣で活躍した幸村の伝説がもてはやされたのもこのためです。真田紐と幸村が結びつけられた背景にも、そうした上方の人たちの思いが込められていたのでしょう。



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