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第37回 日本を代表する仏教の聖地高野山、安土桃山時代には重罪人の流刑地に

NHK大河ドラマ「真田丸」第37回では、関ケ原の合戦に際して西軍についた真田昌幸、幸村(信繁)父子が紀伊(今の和歌山県)の高野山に配流されることが決まりました。東軍についた昌幸の長男で幸村の兄に当たる信之と、その舅の本多忠勝の助命嘆願で命だけは助けられたわけですが、安土桃山時代には罪人となった多くの大名が高野山に流されています。当時の高野山はどんな場所で、なぜ多くの罪人が高野山へ送られたのでしょうか。

奥の院には名だたる戦国大名の墓が続々と

高野山は現在の和歌山県高野町にあり、周囲を標高1,000メートル級の山々に囲まれた標高800メートルの平坦地にあります。平安時代初期の816(弘仁7)年、嵯峨天皇から弘法大師空海へ下賜され、修禅の道場となった日本仏教の聖地の1つで、山全体が高野山真言宗総本山金剛峰寺とその子院の境内になっています。

奥の院にある約2キロの参道には、名だたる戦国大名の墓が並んでいます。真言宗と異なる宗派の大名の墓も多く、戦国大名のざっと6割以上が墓を構えているそうです。信濃(長野県)の川中島で死闘を繰り広げた武田信玄と上杉謙信の墓が仲良く建てられているほか、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、伊達政宗、石田三成のものもあります。

ほとんどの墓石は苔むした古いものですが、立派な構えをしており、とても目立っています。秀吉の墓は息子の秀頼が立てたらしく、敷地も特別に広くなっています。柵があるため中に入れませんが、母のなか、弟の秀長夫妻、姉ともらもいっしょにまつられているそうです。

これに対し、信長の墓は参道から離れた場所にあり、江戸時代の記録では違う場所にあったはずなのに、場所が分からなくなっていました。それが1970年に今の場所で見つかったといいます。信長の側室養観院が建立したものと考えられていますが、不思議なことに規模はそれほど立派ではありません。

これらの墓は実質的に供養塔として建てられたものです。無名の人物も含めれば総数約20万基に及ぶらしく、戦国、安土桃山時代だけでなく、江戸時代まで幅広い年代の人物がまつられています。

領地の大半を返上し、豊臣秀吉に降伏

戦国時代の高野山は、信長の焼き討ちに遭った比叡山延暦寺や天下統一に激しく抵抗した石山本願寺と同様に、多くの僧兵を抱えた武力集団でもありました。

1581(天正9)年には信長に謀反を起こした荒木村重の家臣数人が高野山へ逃げ込む事件が起きました。信長は使者を送り、引き渡しを求めましたが、高野山側は使者を殺してこれを拒否します。信長は各地にいた高野山の僧を多数殺害し、軍勢を高野山に送りましたが、本能寺の変で信長が倒れたため、高野山は難を逃れました。

高野山は当初、信長の後継者となった秀吉とも対立していましたが、秀吉の紀州攻めで抵抗勢力が次々に打ち破られるのを見て降伏します。拡大した領地の大半を返上するとともに、武装の解除、謀反人をかくまうことの禁止という条件を飲んだ結果です。

秀吉は母のなかが死ぬと、山内に現在の金剛峰寺の前身にあたる青巌寺を建立しました。この前後、武士の間で高野山信仰が広がり、関東の北条氏が子院で宿坊の高室院のスポンサーになるなど、各地の大名が高野山を支援しています。

外界から隔絶された絶好の流刑地

安土桃山時代には、滅亡した大名や謀反を起こした武将らのうち、死罪を免れたものが高野山へ流されました。秀吉に降伏した関東の北条氏直、秀吉に謀反の疑いをかけられた甥の豊臣秀次、関ケ原の合戦で西軍に味方した岐阜城主で信長の孫に当たる織田秀信らです。

西軍に味方し、信濃の上田城で東軍に抵抗した昌幸、幸村父子もそのうちの1組です。死罪に値する者が追放されたわけで、罪人のほとんどは生涯、山を下りることが許されませんでした。いわば仮釈放なしの終身刑だったのです。

高野山は日本を代表する仏教の聖地ですが、京都や奈良の寺とは違い、上方の中心部から少し離れた場所にあります。しかも、周囲を1,000メートル級の山に囲まれ、外界から隔絶しています。終身刑の罪人を追放するのに、格好の場所だったわけです。

昌幸、幸村父子は高野山の九度山で辛い蟄居生活を送ることになります。昌幸は九度山で生涯を終え、幸村はやがて大阪の陣で九度山を脱出、大阪城に入ります。



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