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第36回 これぞ軍用レーションの原型、合戦時の携帯食「兵糧丸」

NHK大河ドラマ「真田丸」第36回は、中盤のクライマックスともいえる第2次上田合戦が描かれました。命のやり取りをする戦場で腹が減っては、十分に戦えません。城に立てこもった兵士たちは下働きの人たちが調理した食事にありつけたでしょうが、戦場の野山を駆け回る最前線の兵士はどんなものを食べていたのでしょうか。当時「兵糧丸」といい、現代の軍用レーションの原型ともいえる画期的な携帯食があったのです。どんなものなのか、古い文献などから調べてみました。

山本勘助が忍者の携帯食を書物に

伊賀忍者の故郷である三重県伊賀市西湯舟に忍者料理を提供する店があります。店の名は「藤一水」。といっても飲食店ですから、戦国時代の忍者料理をおいしくいただけるようかなり現代風にアレンジしています。

この店の遠い祖先が伊賀忍者で、戦国時代に甲斐(今の山梨県)の武田信玄に仕えた山本勘助に戦国時代の携帯食を教えたと伝えられています。山本勘助が信玄に仕える前、浪人をして諸国を巡っていたころの話だそうです。

山本勘助はかつての大河ドラマ「風林火山」の主人公で、小説やドラマでは信玄の軍師として描かれています。本当に軍師だったかどうかは分かっておらず、一時は架空の人物説も出ていましたが、山本菅助と記された文書が相次いで見つかり、実在の武将だったことが明らかになりました。

携帯食の記述があるのは、山本勘助が記したとされる書物「老談集」です。このほか、藤一水経営者の祖先が江戸時代初期に著した「萬川集海」という文献にも、兵粮丸という名前で戦国時代の携帯食が記されています。

記述が真実だとしたら、山本勘助は諸国流浪中に伊賀で携帯食を学び、信玄に仕官したあと、武田家中に携帯食を広めたことになります。信玄と上杉謙信が激突した川中島の戦いでも兵士たちは携帯食を食べながら、戦っていたのでしょう。

腹持ちが良く、高カロリーの保存食

この携帯食は一般に兵糧丸の名で知られています。他に兵粮丸、飢渇丸、水飢丸などとも呼ばれていました。丸薬状の保存食で、携帯しやすく高カロリーなのが特徴。腹持ちも良く、身体を動かす直前の食事にも適しています。

山本勘助の「老談集」から作り方を見ていくと、材料はもち米、うるち米、ニンジン、氷砂糖、乾燥させたハスの果肉である蓮肉、シナモンの皮から取る桂心、乾燥させたヤマイモの根の山薬など。これらをすべて粉末にして水で練り、丸めて団子にしたあと、蒸します。地域によっては梅干しや松の実、ゴマ、ハチミツ、魚粉、酒などを混ぜることもあります。

もち米が入っていますから、腹持ちが良いのはうなずけます。蓮肉、桂心、山薬は漢方薬に使われ、ニンジンやハチミツは高い栄養化を誇ります。戦場を駆け回れるだけの栄養素を詰め込んだ食品といえるでしょう。現在の軍用レーション、スナックバーの原型と考えられます。

海のある国ではシラス干しや塩蔵ワカメなど海産物、山国では味噌や鶏卵が入れられていたようです。乾燥方法も地域によっては、蒸すだけでなく、日干し、陰干し、煙でいぶすなどの方法が取られていました。

水飢丸と呼ばれているものは、軍の移動中などに主としてのどの渇きを抑えるために開発されました。梅干し、麦芽、氷砂糖、茶葉、生姜、松の甘皮、果物の果汁、酒を混ぜたもので、現代のチューインガムを栄養豊富にした存在と考えれば良いでしょう。

戦場で兵士が働けるよう最大限の工夫

日本人の間で1日3食の習慣が定着し始めたのは、江戸時代も中期に差し掛かった元禄年間(1688~1704年)からだといわれています。行灯や提灯など灯りが発達し、夜ふかしが可能になったので、夕食の時間が遅くなり、昼食を取るようになりました。

戦国時代には朝食と夕食だけの1日2食が当たり前でした。ただ、当時の食事は雑穀米にいくつかのおかずがついたとても質素なものでした。現代のような栄養豊富な食事ではありませんから、戦場を命がけで走り回るのには1日2食ではとても足りません。

戦国大名の菩提寺の多くは禅寺です。禅宗には点心といい、食事の合い間に軽い間食を取る風習がありました。それも採り入れて戦の間は昼間に携帯食を弁当代わりに食べ、英気を養っていたともいわれています。

戦国時代の1日3食は合戦という特別な場面に限られていたわけです。合戦に敗れれば大名家は断絶し、家来も落武者になってしまいます。勝つために兵士が最大限の働きをできるよう考えだされたのが、携帯食による栄養補給だったのです。



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