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第33回 島左近の生涯は?「三成に過ぎたもの」といわれた知勇兼備の名将


NHK大河ドラマ「真田丸」第33回では、舞台俳優の玉置孝匡さん扮する島左近が登場しました。左近は石田三成の重臣で、「三成に過ぎたもの」といわれるほど知勇を兼ね備えた武将として知られていました。徳川家康と天下分け目の合戦に挑む三成を支え、関ケ原の合戦で戦場の露と消えますが、その知略と武勇から「鬼左近」と呼ばれ、東軍を最後まで震え上がらせました。そんな左近の生涯をたどってみましょう。

筒井順慶の配下として頭角を現す

左近は大和(今の奈良県)出身で、俗に実名を勝猛ともいわれますが、文書に残る名前は清興です。生まれは1540(天文9)年。もともと大和の豪族の出身で、隣国河内(大阪府南東部)の畠山高政に仕えていました。

1562(永禄5)年に畠山高政と阿波(徳島県)の三好長慶が争った教興寺の合戦で畠山方に加わり、参戦したとする記録が残っていますが、敗走したあと、しばらくの間当時の文書から消息が消えます。

その後、大和の戦国大名筒井順慶に仕え、1571(元亀2)年ごろから、筒井家の記録に名前が見られるようになります。筒井順慶は大和の支配権を松永久秀と争いますが、その戦いの多くに参戦し、頭角を現してきました。

筒井順慶はその後、織田信長に従って勢力を伸ばし、松永久秀の滅亡後に大和一国を支配します。左近は椿井城主となるなど出世を重ね、筒井家の有力武将となるのです。このころから左近の勇名は、広く知られるようになっていったのです。

筒井順慶の死後、跡は甥の筒井定次が継ぎますが、左近と全く意見が合いませんでした。左近の領地の農民と中坊秀祐領の農民が水争いで騒動となり、それを機に左近は筒井家を辞しました。中坊秀祐は筒井定次お気に入りの家臣だったといわれています。

破格の待遇で石田三成がスカウト

江戸時代の軍学者山鹿素行の「武家事記」によると、左近はその後、蒲生氏郷、豊臣秀長、豊臣秀保と主を変えました。そんな折、三成が家臣にスカウトしてきたのです。当時、三成の領地は4万石でしたが、その半分の2万石を左近に与えるという破格の条件でした。左近がどれだけ高く評価されていたかがよく分かります。

三成に仕官した時期は1591(天正19)年か、1592(天正20)年といわれています。左近は既に50歳を過ぎ、老齢に入ろうとしていましたが、実力と過去の実績で大名級の領地をもらう有力家臣として転職したわけです。三成に従い、朝鮮にも出兵しています。

当時、三成は豊臣秀吉に官僚としての能力を高く買われ、出世街道をひた走っていました。豊臣政権が長く続けば、左近の一族にももっと明るい未来が開けるはずでした。

しかし、時代は移ります。秀吉が死ぬと、豊臣政権を維持しようとする三成と五大老筆頭の家康が対立し、関ケ原の合戦に向けて時代が動いていくのです。

名将ぶりを発揮しながら、関ケ原で壮絶な最期

1600(慶長5)年の関ケ原の合戦前日、三成を中心とした西軍と家康率いる東軍は美濃(岐阜県南部)で対峙していました。左近は家康の本隊が到着したことを知ると、兵500を率い、東軍の中村一栄、有馬豊氏両隊に戦いを挑み、これを打ち破ります。いわゆる杭瀬川の戦いです。

家康本隊の到着で意気上がる東軍の出鼻をくじくとともに、家康到着に動揺する西軍の士気を鼓舞するのが狙いだったようです。さらに、左近は島津義弘、小西行長とともに東軍の夜襲を提案します。先制攻撃を続け、東軍の士気を下げようと考えたようですが、これは三成に受け入れられませんでした。

関ケ原の合戦で三成の部隊6,900人は、左近の指揮の下で黒田長政、細川忠興の部隊合わせて1万人余りと激戦を繰り広げます。三成の部隊は数で劣っていましたが、木柵、空堀から成る野戦陣地で東軍の攻勢をしのぎ、優位に戦いを進めていました。

しかし、南宮山に陣取った毛利勢が動かなかったうえ、小早川秀秋の部隊が裏切ったため、次第に戦局は東軍に傾きます。やがて西軍は総崩れとなり、敗走しました。

左近はこの戦闘中に討ち死にしたとされています。黒田長政の鉄砲隊に狙撃されたという説と、小早川秀秋の裏切りで総崩れになる中、黒田長政の部隊に突撃して討ち死にしたという2つの説があるようです。

関ケ原で生涯を終えたものの、噂通りの名将ぶりを最後まで発揮しました。黒田家の兵士たちは関ケ原から数年経っても「かかれ」という左近の声を思い出し、おびえたという逸話が残っています。



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