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第32回 大阪の陣で大活躍、土佐の戦国大名長宗我部盛親の生涯とは

NHK大河ドラマ「真田丸」第32回で、後の大阪の陣で主役の1人を務める長宗我部盛親が初登場し、名脇役の阿南健治さんが存在感たっぷりに演じていました。盛親は土佐(今の高知県)の戦国大名長宗我部家の跡取りで、関ケ原の戦いでは心ならずも西軍に味方し、改易となりますが、大阪の陣で長宗我部家の復興を目指して大活躍します。盛親の人生をたどってみましょう。

家臣の反対を乗り越え、長宗我部家の跡取りに

長宗我部氏はもともと、土佐長岡郡の豪族ですが、本姓を秦氏と称し、古代中国秦の始皇帝の末裔を自称していました。盛親の父元親の代で土佐一国を統一、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)の三好氏、伊予(愛媛県)の西園寺氏、河野氏らと戦い、四国をほぼ統一します。しかし、豊臣秀吉の四国攻めで敗れ、土佐一国の大名として秀吉に従いました。

盛親は元親の四男として1575(天正3)年に生まれました。長兄の信親が1586(天正14)年の九州攻め戸次川の戦いで戦死し、次兄の親和が香川家、三兄の親忠が津野家に養子入りしていたため、元親から後継者に指名されました。

性格はごう慢で短気と伝えられています。このため、家臣の間で後継ぎとなることに反対の声がありましたが、元親が強引に反対派を処断し、後継者に据えました。長兄信親の娘を正室に迎え、1599(慶長4)年に元親が死ぬと跡を取りました。

元親の存命中から「長宗我部元親百箇条」を親子で制定して発布したほか、小田原城攻めや朝鮮出兵に従軍しました。1594(文禄3)年以降は文書の多くが盛親名で発行されており、事実上の代替わりを果たしていたようです。

しかし、家督継承の事情が異常だったとして、秀吉は盛親を跡取りと認めていなかったとする見方も出ています。豊臣政権が家督継承を認めた文書がなく、盛親自身が官位を受けた記録も見当たらないからです。

手違いで西軍に参戦するも、関ケ原では動けず

盛親は関ケ原の戦いで当初、徳川家康の東軍に味方しようと考えていたようです。しかし、家康に密書を送るのに失敗し、近江(滋賀県)水口で西軍に与する長束正家に進路を阻まれ、やむなく西軍に入りました。6,600人の手勢を引き連れていたと伝えられます。

京都の伏見城、伊勢(三重県)の安濃津城を落としながら、関ケ原へ向かい、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊ら毛利軍とともに南宮山に布陣しました。心ならずも西軍に入りながらも、いつの間にか主力の一角を占めていたのです。

ところが、戦いが始まると前方にいる吉川広家が動かず、南宮山に布陣した約3万人は身動きできなくなりました。盛親は再三、目の前にいた毛利秀元に出陣を要請しますが、秀元も吉川広家に進路を妨げられ、動くに動けませんでした。

困惑した秀元は「今、兵に弁当を食べさせている」と苦し紛れの言い訳をします。秀元の官職が宰相だったことから、「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれました。

吉川広家が動かなかったのは、東軍の勝利とみて徳川方と内通していたからです。南宮山は家康本陣の背後。毛利、長宗我部軍ら背後から家康を攻撃していれば、勝敗がどう転んだか分かりません。

南宮山の西軍が動かないまま、戦闘は終わり、東軍が勝利を得ました。盛親は東軍の追撃を振り切り、戦場から逃亡、土佐へ逃げ帰ります。家康の重臣井伊直政を通じ、家康に謝罪しましたが、その直前に兄の津野親忠を殺害していたため、これをとがめられて改易となりました。

大阪落城後も家再興の夢をあきらめずに逃亡

浪人となった盛親は京都で蟄居し、謹慎生活を送りました。旧臣の仕送りで生活していたとも、寺子屋の師匠をしていたともいわれています。名前も大岩祐夢と改めていました。

そんな生活が14年間続いたあと、盛親にチャンスが訪れます。大阪の陣が始まろうとしていたのです。1614(慶長19)年、豊臣秀頼は盛親を大阪城へ招きました。盛親は再び、大名の地位に戻るのを夢見て西軍に加わります。

土佐時代の旧臣ら1,000人が盛親の下へ集まってきたと伝えられます。大阪城に入った浪人武将の中で最大の手勢を率いた盛親は、真田幸村(信繁)、後藤基次らとともに主力部隊となりました。

野戦となった夏の陣では、木村重成とともに5,000人の手勢を率いて出陣し、家康の本陣を突こうとしました。八尾若江の戦いです。盛親の部隊は東軍の藤堂高虎の部隊と遭遇し、これを打ち破って潰走させます。

しかし、木村重成隊が井伊直孝隊との戦いで壊滅、戦場に孤立しそうになったことから、やむなく大阪城へ退却しました。その後、天王寺・岡山の戦いで西軍の敗北が濃厚になると、再起を期すため大阪城を脱出し、逃亡しました。

しかし、京都八幡に潜んでいるところを捕らえられ、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首されました。逃亡した息子たちも相次いで処刑されたと伝えられています。

盛親は京都八幡で捕らえられた際、「出家する」と命乞いをしたそうです。生き延びてもう一度兵を起こす機会をうかがうためだったといわれています。絶体絶命の危機の中でも、最後まで夢をあきらめていなかったのです。



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