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第31回 あえなく崩れた五大老五奉行制、豊臣政権崩壊は秀吉の誤算に始まる

NHK大河ドラマ「真田丸」第31回では、死に瀕した豊臣秀吉が後継者の秀頼の行く末を重臣らに頼むシーンがありました。秀吉は自分の死後、秀頼が成人するまで五大老、五奉行の集団指導体制で政権を運営していこうと考えていました。しかし、これが豊臣政権下で圧倒的な実力を持つ徳川家康と、秀吉の秘書的な立場で豊臣家を動かしてきた石田三成の対立につながり、やがて関ケ原の合戦に発展します。五大老、五奉行制はなぜ、豊臣政権の維持に結びつかなかったのでしょうか。

豊臣家さえ上回る圧倒的な徳川家康の軍事力

秀吉の遺言で五大老に任命されたのは、家康を筆頭に、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家。五奉行は筆頭の浅野長政をはじめ、三成、増田長盛、前田玄以、長束正家です。

秀吉にとって五大老は、前田利家が織田信長に仕えていたころからの同僚で親友、宇喜多秀家は自分の猶子に加えて一門衆としていましたが、後の3人は秀吉が天下統一を進める途中で従った外様の大大名でした。

これに対し、五奉行は秀吉側近の実務官僚です。浅野長政が秀吉の正室北政所の義弟であったほか、三成ら4人も早くから秀吉に仕えていました。このうち、三成と浅野長政、増田長盛が主に一般政務、長束正家が財政、前田玄以が朝廷や公家、寺社を担当することになります。石高は5万石から22万石で、大大名といえる者はいませんでした。

五大老の石高は、家康が関東256万石、毛利輝元が中国、上杉景勝が奥州会津の各120万石、前田利家が北陸84万石、宇喜多秀家が備前(今の岡山県東部)を中心とした57万石。家康の石高は他の大老を圧倒し、豊臣家の222万石をも上回っていました。家康は豊臣家の中でも飛び抜けて大きな領地を持っていたのです。

領地の広さは動員兵力数に影響します。一般に1万石当たりの動員兵力は250人といわれています。そこから計算した家康の動員可能兵力は6万4,000人。家康に次ぐ毛利輝元や上杉景勝の3万人の倍以上となり、圧倒的な軍事力を持つ唯一の超大国だったわけです。

しかも、家康は三方ケ原の合戦で武田信玄に敗れた以外、野戦で負けたことがない戦上手。秀吉と争った小牧・長久手の合戦でも局地戦で秀吉軍を打ち破り、池田恒興、森長可ら有力武将を討ち取っています。他の武将は単独で対抗できないほど大きな存在となっていたのです。

第1の誤算は前田利家の早すぎる死

秀吉は家康を抑えるため、対抗馬として前田利家を想定していました。利家は石高では五大老のうち4位ですが、信長に仕えていたころ「槍の又左」といわれた武門一筋の人物で、人格者だったため、家中の人望を集めていました。

家康が豊臣家に届け出をせずに有力大名と婚姻関係を結んだ際には、三成とともに戦覚悟で詰問し、家康に非を認めさせました。その結果、利家は三成とともに、家康と誓紙を交わして和睦しますが、家康に簡単に屈しない気概を大いに示したのです。

しかし、秀吉の死から1年も経たない1599(慶長4)年、まるで秀吉の後を追うように病死してしまいます。家康が暴走してもそれを抑えられる人物がいなくなったわけで、秀吉にとって大きな誤算でした。

利家の死は豊臣家中の分裂を引き起こします。三成ら主に官僚として働いてきた奉行衆と、加藤清正、福島正則、黒田長政ら戦場で活躍してきた武断派武将らが激しく対立したのです。

さらに、三成ら近江(滋賀県)出身者と加藤清正ら尾張(愛知県西部)出身者、秀頼を産んだ淀殿側近と正室の北政所側近の対立も表面化してきます。利家の死で豊臣家中のまとめ役がいなくなってしまったからです。

第2の誤算は石田三成の人望のなさ

三成は豊臣家への忠誠心が高く、行政官僚として比類のない切れ者でしたが、戦場での不手際をしばしば秀吉に告げ口していたため、武断派武将の多くから恨みを買っていました。利家の死は三成を憎む武断派武将の怒りにも火をつける結果となりました。

その結果、加藤清正ら武断派武将7人が利家の死の直後、三成の大阪屋敷を襲撃する事件が起きます。三成は難を逃れましたが、仲裁に乗り出した家康の裁定で隠居し、五奉行から退きました。三成が消えたことで政務は家康の独壇場となっていきます。

五大老、五奉行の集団指導体制は、秀吉の死から1年も経たずに家康の手に移っていきました。武断派武将の多くは豊臣恩顧の大名でありながら、三成を憎むあまり家康に心を寄せていきます。三成の人望のなさも秀吉にとって大きな誤算だったといえるでしょう。

やがて三成は家康が会津の上杉景勝討伐に向かったのを機に、家康打倒を目指して挙兵します。自分に人望がない点を承知し、毛利輝元を総大将、宇喜多秀家を副大将、浅野長政以外の3奉行を味方に引き込みましたが、武断派武将の多くが家康につき、1600(慶長5)年の関ケ原の合戦で敗北しました。

前田利家が家康並みに長生きするか、三成に利家並みの人望があれば、家康が豊臣家の天下を奪えなかったかもしれません。秀吉の誤算が後の豊臣家滅亡につながったといえるでしょう。



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