MENU
このエントリーをはてなブックマークに追加

第30回 秀吉最後のビッグイベント、醍醐の花見に込めた狙いとは

NHK大河ドラマ「真田丸」第30回で醍醐の花見のシーンが登場しました。豊臣秀吉が死の半年前となる1598(慶長3)年、京都の醍醐寺に1,300人もの女性を招いて催した大宴会で、1587(天正15)年の北野の茶会と並ぶ一世一代のビッグイベントでした。境内から醍醐山の山腹までに700本の桜を植え、参加した女性たちの衣装代だけで現代の40億円に相当する費用がかかるなど贅の限りを尽くしています。天下人秀吉の権威を最後に見せつけることができたようです。

桜の下での酒宴は秀吉が始まり

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山醍醐寺。平安時代初期の874(貞観)16年に創建された古刹で、伏見区東方の醍醐山一帯に660万平方メートルの広大な敷地を持っています。

国宝の金堂、五重塔だけでなく、京都きっての花見の名所としても有名です。現在、境内にある桜は約800本。京都最古のソメイヨシノ、遅咲きのヤエベニシダレザクラ、オオヤマザクラなどが咲き乱れ、例年全国から約20万人もの見物客が集まっています。

文字通り京都を代表する名所となっているわけですが、醍醐の花見まで桜の名所ではなかったのです。醍醐の花見の会場となったことで、秀吉が桜を近畿地方各地から移した結果、名所となりました。

日本人は古くから桜を愛でてきました。奈良時代に編纂されたとされる万葉集にも、桜を詠んだ歌が数十種あります。しかし、貴族ら特権階級の伝統行事の趣きが強く、庶民はほとんど関係ありませんでした。

庶民が桜の下に集い、酒を飲んで大騒ぎする現代の花見スタイルを生み出したのは、秀吉の醍醐の花見が始まりといわれています。人々が山河に分け入り、酒宴を楽しむ物見遊山という言葉が誕生したのもこの時代です。

700本の桜を植えて花見の名所に改造

秀吉は醍醐の花見を企画すると責任者に前田玄以を任命、自らも足繁く醍醐寺に通い、準備に力を入れました。当時、醍醐寺は応仁の乱以来の戦乱による荒廃から立ち直ったばかり。そこで、秀吉は建物の造営や庭園の改修をする一方、伽藍全体に700本もの桜を植えて花見の名所に造り替えました。

境内には茶会や歌会を開くための茶屋を8カ所も設け、中には風呂付きの茶屋もあったといいます。招待する女性たちには2度の衣装替えを命じ、1人3着ずつの着物が新調されました。派手好みの秀吉らしく、世間の度肝を抜く贅沢な宴会だったのです。

秀吉は主君織田信長の葬儀や後陽成天皇の聚楽第行幸、北野天満宮での大茶会など都人を驚かせる大イベントを何度も行ってきました。そこには自らの権威アピールなど政治的な思惑が込められていました。

醍醐の花見当時は朝鮮半島で慶長の役が続き、日本軍が苦戦していました。盛大な花見の開催には、その重苦しい雰囲気を吹き飛ばすとともに、豊臣政権の安定を世間に知らせる狙いがあったとみられています。

武将の妻ら1,300人の女性が一堂に

花見には後継者の秀頼、正室の北政所、秀頼生母の淀殿ら側室のほか、配下の大名や武将の妻、侍女ら1,300人も集まりました。招かれたのは女性ばかりで、男性は秀頼のほか、秀吉の盟友の前田利家の名前が見えるだけでした。

開催日は旧暦の3月15日。前日まで風雨が激しかったのですが、当日は晴れ上がって絶好の花見日和となったそうです。8カ所の茶屋では茶が点てられたほか、豪華な料理と名酒が用意されていました。

酒宴では正室の北政所の次に盃を受けるのを、配下の大名京極高次の姉(妹との説も)で、戦国きっての美女とうたわれた側室の松の丸殿(京極竜子)と、淀殿が争う一幕もありました。この争いは前田利家の正室まつが機転を利かせ、収めたという逸話が伝わっています。

秀吉は茶屋の風呂で汗を流すと、再び御膳につき、歌会で歌も詠みました。秀吉自筆の短冊は今も醍醐寺に残っています。秀吉は終始上機嫌で、花びらのちり積もった野山を侍女に手を引かれてはしゃいでいたそうです。盛大な花見を実現し、してやったりの気分だったのでしょう。



スポンサードリンク