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第28回 巨万の富を生んだルソンの壺、呂宋助左衛門とは一体何者?

NHK大河ドラマ「真田丸」第28回には、歌舞伎の名優松本幸四郎さんが演じる和泉国(今の大阪府南西部)堺の伝説的な豪商呂宋助左衛門が登場しました。助左衛門は安土桃山時代にスペイン領ルソン(フィリピン)との交易で巨万の富を得た人物です。豊臣秀吉の保護を受け、日本でも豪商として活躍していましたが、贅沢な暮らしぶりで秀吉からにらまれ、晩年はカンボジアに逃れて生涯を終えたと伝えられています。かつて大河ドラマ「黄金の日々」の主人公として描かれながら、素性や経歴のほとんど分かっていない助左衛門の生涯に迫ってみましょう。

堺の自治組織を指導する納屋衆の出身

大阪府堺市堺区の旧市街地にある臨済宗の寺院大安寺。総ヒノキ書院造りの本堂は、大阪夏の陣で寺が焼失したあと、江戸時代初期に移築したものと調査で判明しました。もとは助左衛門の豪華な邸宅だったとの伝承が残っています。

本堂4室にある計76面のふすまには、鶴や松が描かれ、黄金色に輝いています。室町時代から江戸時代に活躍した狩野派の作と推定され、「黄金の日々」というドラマのタイトルにふさわしい豪華絢爛さだといえるでしょう。

これも移築前の邸宅で使用されていたものを再利用したことが分かっています。助左衛門の邸宅だったとすれば、大名屋敷にも匹敵する豪勢さの中で暮らしていたことになります。

助左衛門は1565(永禄8)年、堺の貿易商人で、納屋衆の1人とされる納屋才助の子として生まれたと伝えられています。本名は納屋助左衛門ですが、古文書には菜屋助左衛門、魚屋助左衛門と記載されたものもあります。

納屋衆は海浜に商業用倉庫を置き、これを貸し付けて利益を得ていた問屋の1つで、廻船業や金融業を営む者が多くいました。その中心人物たちは納屋貸十人衆、会合衆と呼ばれ、室町時代から戦国時代にかけて商人の自治組織が運営していた堺を指導する立場にありました。

茶人として有名な千利休は幼名を納屋与四郎、織田信長の茶頭を務めた堺の豪商今井宗久も納屋宗久とも呼ばれ、納屋衆の出身でした。

ただ、堺の豪商は室町幕府や有力戦国大名との結びつきが強い政商の傾向が強かったといわれています。このため、政権が交代するたびに、会合衆のメンバーも変わっていたようです。

東南アジアの小便器を茶器と称して高額で販売

太閤記などによると、助左衛門は安土桃山時代に度々、ルソンに渡っていたらしく、1594(文禄3)年に秀吉へ現地で手に入れた香料やろうそく、麝香、唐傘など珍品を献上しました。中でも秀吉の目に留まったのが、助左衛門が茶器と称したルソンの壺でした。

ルソンの壺は中国南部や東南アジアで雑器として広く使用されていたもので、小便器としても用いられていました。現地ではあまり価値があるものとは見なされていなかったようですが、助左衛門はこれに目をつけ、大量に入手しました。

現存する壺のレプリカは南海電鉄堺駅ビルにある観光案内所に展示されています。高さ30センチほど。口の周りにひもをつける突起があり、褐色の色あいをしています。わびさびを感じる気品を持つといえる気もしますが、ありきたりの壺のようにも見えます。

これが秀吉の目に留まると、大名たちがこぞって買い求め、高額で飛ぶように売れていきました。やがて壺1つが1国に値するともいわれるようになり、助左衛門は巨万の富を得たのです。折から日本は茶の湯ブーム。これに注目した助左衛門は先見の明があったのでしょう。

危機を察知し、ルソンへ脱出、やがてカンボジアへ

しかし、このぼろもうけが秀吉の配下石田三成にとがめられました。三成の讒言を聞いた秀吉は邸宅など財産没収の処分を決めます。身分をわきまえない贅沢すぎる暮らしが問題だというわけです。一説には現地で便器として使用していることがばれたともいわれています。

これを事前に察知した助左衛門は1598(慶長3)年、邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進し、日本人町があるルソンへ脱出しました。

ルソンへ渡ったあとの助左衛門の行動はよく分かっていませんが、スペインがカンボジアに介入した17世紀初頭にカンボジアに渡ったといわれています。当時、カンボジアやタイなど東南アジアには多くの日本人が進出、日本人町が形成されていました。

助左衛門はカンボジア王の信任を得て、そこでも豪商にのし上がったとも伝えられています。



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