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第27回 真田左衛門佐が誕生、豊臣政権下で武将に与えられた官位とは

NHK大河ドラマ「真田丸」第27回では、真田幸村(信繁)に「従五位下左衛門佐」の官位が与えられました。官位は古代律令制の官職と位階の総称で、宮中での序列や職務を示していましたが、戦国時代になると武士が朝廷に献金して官位を受けるようになり、武家社会での序列を示すものに変わっていきます。戦国時代の大名は家臣に官位を与えることを恩賞とし、忠節を求める手段として利用していたのです。

律令制で発祥し、戦国時代は大名の格の証しに

官位は、おおむね飛鳥時代の7世紀後半から平安時代の10世紀ごろまで続いた律令制の時代に設けられました。中央には2官8省を中心とした官職、地方には国司など地方官が置かれていました。

位階は官人の序列で、603(推古11)年に聖徳太子が制定した冠位制をもとに、律令制の中で発展したものとされます。皇族の親王は一品から四品までの4階、諸王は正一位から従五位下までの14階、臣下は正一位から少初位下まで30階に分かれていました。

律令制が事実上、崩れたあとも、官位は公家社会で用いられていました。実質的に意味をなさなくなっても、権威として効力を持っていたからです。このため、武家政権が出現したあとも武士の序列を示す目的で使われてきましたが、戦国時代になって大きな変化が現れます。

相次ぐ下克上で武家社会の序列は、根底から覆されました。戦乱が続く影響もあり、朝廷は資金面で困窮していきます。同時に室町幕府の権威は地に落ちました。各地に群雄割拠する戦国大名は、家の格を高めるため、資金を提供して官位を求めるようになったのです。その結果、地方の小大名でも官位を得られるようになりました。

中には分不相応な高い官位を得た大名もいます。周防(今の山口県東部)の大内義隆は従二位兵部卿に就きました。官位は大名の権威づけとともに、領国支配の正当性や戦の大義名分として利用することができたからです。

戦国時代も後半になると、朝廷や幕府の権威はますます低下し、勝手に官位を名乗る大名が現れています。織田信長が初期に名乗っていた上総介が代表例です。武田信玄が家臣の馬場信房に美濃守を与えたように恩賞として官職を授ける例も出てきました。

豊臣秀吉が信長の配下時代に名乗っていた筑前守、明智光秀の日向守もその1つと考えられています。筑前国は福岡県北部、日向国は宮崎県。守はその国の責任者を示しますが、信長の勢力は九州に及んでいませんから、実態の伴わない名誉の肩書となっていたのです。

秀吉は政権維持へ官位で配下の序列を形成

秀吉は天下統一に向け、地歩を固めるたびに、官位を得ていきます。光秀討伐後には従五位下左近衛権少将、柴田勝家討伐後に従四位下参議、小牧長久手の戦いの後で従三位権大納言、その後、従二位内大臣を経て従一位関白へと進みました。

尾張(愛知県西部)の農民の出身で家柄を持たなかった秀吉は、支配者としての正当性を確保するため、官位を利用していきます。主家だった織田家を押しのけて天下人となるためにも、権威づけとして高い官位がほしかったのでしょう。

秀吉が公家の最高位である関白として天下統一すると、豊臣本家を公家の摂関家、一門と徳川、前田、上杉、毛利、宇喜多の5家を公家の中で摂関家に次ぐ清華家の格とする家格改革を進めました。自分を頂点に大名の序列を作り、従わせることが目的です。

摂関家とは藤原氏の嫡流で、近衛、九条、二条、一条、鷹司の5家を指し、関白に昇進できる公家中で最高の家格です。清華家は久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川の7家で、後に醍醐、広幡の両家が加わり、太政大臣まで昇進できました。秀吉は武家社会を公家社会に見立て、格付けしていったわけです。

それでは、真田丸の登場人物はどんな官位を得ていたのでしょうか。徳川家康は正二位内大臣、豊臣秀長、前田利家は従二位権大納言、織田秀信、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川秀秋らは従三位権中納言に任じられています。大大名や豊臣一門、旧主家の織田家は高い地位に置いています。

配下の石田三成は従五位下治部少輔、加藤清正は従五位下主計頭、小西行長は従五位下摂津守に任じられました。公家社会では下級ランクに該当しますが、国司クラスに当たります。気に入った大名や武将にそれなりの官位を与え、豊臣政権の維持に腐心していたわけです。



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