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第25回 戦国一のイケメン大名宇喜多秀家、栄華の後に待ち受けた運命とは

NHK大河ドラマ「真田丸」第25回に、元男闘呼組の高橋和也さんが扮する宇喜多秀家が初登場しました。秀家は備前(今の岡山県東部)の戦国大名宇喜多家に生まれた外様ながら、豊臣秀吉と親子の関係を結ぶなど、豊臣家で出世街道をひた走りました。妻は秀吉の盟友前田利家の四女で、秀吉の養女となった豪姫。秀吉の晩年には五大老の1人に任命されています。豊臣政権が続けば重鎮として国を動かしていたはずですが、関ケ原の戦いで西軍の副大将を務めて敗北したあと、過酷な運命が待ち受けていたのです。

外様武将ながら秀吉の一門衆に

秀家は備前岡山城主宇喜多直家の次男として1572(元亀3)年、生まれました。最初の名前は家氏。父の直家が1581(天正9)年に病没すると、当時従属していた織田信長の計らいで家督を継ぎました。

秀家が幼少だったため、宇喜多勢は叔父の忠家が代理で指揮し、中国の毛利輝元と戦っていた秀吉の軍に組み込まれました。1582(天正10)年、本能寺の変で信長が横死すると、秀吉は毛利と和睦。秀家は備前、美作(岡山県北部)と備中(岡山県西部)の一部を領有する57万4000石の大大名となったのです。

元服した秀家は秀吉にかわいがられ、「秀」の一文字を与えられて家氏から秀家と改名します。1586(天正14)年には豪姫を正室に迎え、外様でありながら秀吉の一門衆に加えられました。翌年には秀吉から豊臣姓を与えれています。

その間、秀吉の紀州攻めや四国攻め、九州攻めに参戦したほか、関東の北条氏を攻め滅ぼして天下統一を成し遂げた小田原攻めに加わり、秀吉を支えていきます。2度に渡った朝鮮攻めにも従軍し、秀吉から五大老の1人に任命されました。

成人した秀家は容姿端麗で通っていました。身長は現存する鎧から推計して170センチほど。当時の男性の平均身長が156センチでしたから、背の高いイケメン大名だったことになります。

関ケ原で敗れ、八丈島へ島流し

秀家の順風満帆の出世街道は1598(慶長3)年の秀吉の死で転機を迎えます。その翌年、宇喜多騒動が勃発したのです。重臣の戸川達安、岡利勝らが秀家の側近中村次郎兵衛の処分を願い出たのに対し、秀家が拒否したことから、騒動が勃発しました。

中村次郎兵衛はもともと前田利家の家臣。秀家が豪姫を迎え入れた際、付き人として仕え、大阪屋敷の家老となっていました。事件後、大阪で宇喜多家家臣の襲撃を受け、難を逃れたものの、前田家に逃げ帰ってしまいます。大阪屋敷は戸川達安らに占拠されました。

秀家は戸川達安の暗殺を企てましたが、いとこの宇喜多詮家(後の坂崎直盛)がかばって抵抗、両者は一触即発に事態を迎えます。徳川家康の仲裁で事態は解決したものの、戸川達安ら譜代の家臣の多くと宇喜多詮家が宇喜多家を去り、家中が弱体化しました。

豊臣政権内の立場も危うくなります。秀吉の後を追うように前田利家が亡くなると、五大老筆頭の家康が実権を握りました。このとき、秀家は同じ五大老とはいえ、家康の台頭に手をこまねいているしかありませんでした。

石田三成が毛利輝元を総大将に担ぎ、家康討伐の軍を挙げると、秀家は副大将となり、関ケ原の合戦を迎えます。西軍最大の1万7,000人という大兵力を集め、西軍の中軸を担いますが、小早川秀秋の裏切りもあり、敗北を喫しました。

その結果、宇喜多家は断絶。秀家は長く逃亡生活を送り、薩摩(鹿児島県西部)まで落ち延びますが、1603(慶長8)年、島津忠恒によって家康のもとに身柄を移されます。義兄の前田利長の嘆願で命は救われましたが、八丈島へ島流しとなりました。

経験不足から家康の台頭を抑えられず

秀吉、利家が死んだあと、秀家は家康を抑え、豊臣政権を守るべき立場にいました。しかし、まだ若く、百戦錬磨で老獪な家康を抑えるだけの実力はありませんでした。

加藤清正、福島正則、黒田長政ら武断派武将と、石田三成、小西行長ら文治派武将の派閥抗争も止められず、豊臣家は二派に分裂してしまいます。一門衆として豊臣政権の中枢にいながら、経験不足でどうしようもなかったのでしょう。

関ケ原の戦いでも西軍武将で最大の兵力を動員していました。しかし、譜代の有力な家臣が宇喜多騒動で家を離れ、十分な働きをできなかったようです。家中をまとめ切れていなかったともいわれています。

秀家は1606(慶長11)年、豪姫との間に生まれた2人の息子とともに、八丈島へ渡ります。豪姫は同行を望みましたが、認められず、実家の前田家に戻って61歳で生涯を閉じました。

八丈島の秀家は浮田と姓を変え、妻の実家の前田家や宇喜多旧臣の花房正成の援助でつつましく暮らしていました。恩赦を望んでいたようですが、それもかなわずに約半世紀後の1655(明暦元)年に83歳で世を去りました。

秀家とともに流刑になった長男、次男は八丈島で子孫を残し、今も血脈を伝えています。秀家が釣りをしていたとされる八丈島の南原海岸には、備前がある西の方向を臨む秀家と豪姫の石像が立てられています。



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