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第24回 戦国大名の参謀に多い僧侶、なぜ彼らは大任を与えられたのか

NHK大河ドラマ「真田丸」では、名脇役俳優の山西惇さんが扮する板部岡江雪斎が北条軍の参謀、外交僧として活躍しています。戦国時代に僧侶でありながら、外交を受け持ち、軍を動かした参謀は少なくありません。そんな大役を戦国大名はなぜ、僧侶に任せたのでしょうか。江雪斎と今川義元の軍師を務めた太原雪斎、毛利輝元の外交僧として活躍した安国寺恵瓊の生涯を振り返りながら、考えてみましょう。

江雪斎は信長や信玄との同盟交渉で活躍

江雪斎は1537(天文6)年、伊豆(今の静岡県伊豆半島)下田で生まれました。若くして僧侶の道に入っていましたが、才能を北条氏政に認められ、板部岡家の後を継いで側近として働くようになります。

伊豆諸島の代官や寺社奉行を任されていたとされ、氏政の父氏康の病気平癒祈願、北条軍の戦勝祈願を受け持っていました。

特に活躍が目立ったのは外交です。織田信長や武田信玄との同盟交渉、徳川家康、上杉謙信との和睦交渉に奔走し、手腕を見せつけました。しかし、信玄の病死が噂されたころ、病気見舞いと称して甲斐(山梨県)を訪ねた際、影武者となって応対した信玄の弟信廉を見抜けなかった話が残っています。

豊臣秀吉の小田原城攻めが始まる前、秀吉と交渉したのも江雪斎でした。秀吉には非常に気に入られ、自ら茶をたてて与えたといわれています。

小田原城が落城したあと、捕らわれましたが、秀吉によって一命を助けられ、秀吉に仕えます。秀吉の死後は長男が仕えていた家康に招かれ、家臣に加わりました。子孫は代々、旗本として徳川将軍家に奉公しています。

黒衣の宰相雪斎は一軍を率いる総大将に

駿河(静岡県東部)の戦国大名今川義元の軍師として知られるのが、太原雪斎です。義元の養育係を務めたあと、義元が今川家の後継者になると軍師を務め、義元の異母兄玄広恵探の反乱を鎮めて「黒衣の宰相」と呼ばれました。

信長の父に当たる尾張(愛知県西部)の織田信秀との戦いでは、自ら軍を率いて総大将となっているほか、相模(神奈川県南部)の北条氏康、甲斐の武田信玄との三国同盟締結にも尽力しました。

三国同盟により、義元は西、氏康は関東、信玄は信濃(長野県)へ後顧の憂いなく出陣できるようになりました。戦国きっての知将といえる氏康や信玄相手に交渉をまとめたのですから、雪斎の知略はなかなかのものだったといえるでしょう。

軍事や外交だけでなく、領内の商業振興や寺社統制にも腕を振るい、今川家の全盛時代を築き上げました。雪斎の死から5年後、義元は桶狭間の戦いで信長に首を討たれますが、雪斎が存命ならこうした失態はなかったと考える歴史家が多いようです。

恵瓊は外交僧から豊臣家の大名に昇進

毛利輝元の外交僧として力を発揮し、後に豊臣家の大名となったのが安国寺恵瓊です。若いころから毛利家に仕え、1568(永禄11)年の豊後(大分県)大友家との合戦には恵瓊も従軍、諸豪族を味方につける外交交渉で名前を上げました。

信長の死後、秀吉と和睦交渉を進めたほか、毛利輝元が正式に秀吉に臣従することを誓った際に毛利側の交渉窓口となっています。秀吉は恵瓊を高く評価して近習として取り立て、伊予(愛媛県)に2万3,000石の領地を与えました。僧侶でありながら、れっきとした大名になったわけです。

その後、朝鮮出兵にも従軍し、占領地の支配を任されました。秀吉の死後は関ケ原の戦いに際し、毛利輝元を西軍の総大将に担ぎ出し、石田三成とともに西軍の中核を担います。しかし、西軍の敗北により、京都で斬首されました。

高い知識と教養が外交官や軍師にぴったり

このほか、信長は沢彦宗恩、信玄は快川紹喜を相談相手や外交僧として活用しています。どうしてこれほど僧侶が重用されたのでしょうか。

仏教の伝来から江戸時代の初めまで僧侶は中国から伝わった最先端の学問を身に着けた存在でした。僧侶が読む漢文の書物の中には、農業技術から建築、薬学など幅広い分野の知識が含まれていました。

戦国大名はこうした僧侶の高い教養と知識を評価していました。「孫子」など兵法書の知識を持つ僧侶も多く、頭の回転もきっと速かったのでしょう。軍師や相談相手、外交官に打ってつけの人材が僧だったわけです。

戦国時代の寺社は独自の僧兵を抱え、戦国大名さながらの領地経営をしていました。このため、僧侶の側も軍を率い、大名の外交交渉をすることに抵抗がなかったと考えられています。



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