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第23回 小田原城の歴史 謙信も信玄も落とせなかった難攻不落の要塞

NHK大河ドラマ「真田丸」第23回は、豊臣秀吉による北条攻めが舞台となりました。16万人ともいわれる大軍を編成した秀吉に対し、北条氏政、氏直父子は相模(今の神奈川県南部)の小田原城に立てこもります。小田原城は戦国時代、上杉謙信や武田信玄の軍勢に取り囲まれましたが、決して落城しなかった難攻不落の名城です。戦国時代から安土桃山時代にかけ、堅固な城の代名詞として語られた小田原城の歴史をたどってみましょう。

歴代当主が改修続け、戦国一の堅城に

小田原城の前身は、室町時代に西相模を支配していた豪族の大森氏が高台の八幡山に築いた山城だったといわれています。築城年や城の規模はよく分かっていませんが、15世紀の中ごろに築かれたのではないかと考えられています。

15世紀の末、北条早雲が小田原に進出、勢力下に収めました。しかし、早雲は伊豆(静岡県伊豆半島)韮山城を本拠としていました。小田原城が北条氏の本拠地となるのは早雲の死後となります。

北条氏2代当主の氏綱以降、関東支配の中心拠点として整備拡張が進んでいきます。3代目の氏康は甲斐(山梨県)の武田信玄、駿河(静岡県東部)の今川義元と甲相駿三国同盟を結び、関東管領の上杉憲政を越後(新潟県)へ追って関東の支配権を徐々に固めていきました。

氏康も城の拡張を進め、小田原城を難攻不落の大要塞と変えていきます。現在の小田原城は江戸時代の城を復元したものですが、氏康の時代で今の小田原城の少なくとも2倍の大きさがあったと伝えられています。

その堅固さを世間に知らしめたのが、1561(永禄4)年の上杉謙信による小田原城包囲でした。謙信は北関東の反北条勢力を結集、10万ともいわれる大軍を率いて小田原城を囲みました。

謙信は城下町を焼いたあと、本丸の東にあった蓮池門辺りまで進みましたが、激しい抵抗を受けて膠着状態に陥ります。力攻めによる攻略ができず、北関東諸将の不満が募り始めたことから、包囲を解き、越後へ戻りました。江戸時代の軍記物語では1カ月の包囲戦と書かれていますが、実際は10日ほどだったともいわれています。

小田原城の堅固さが北条家の危機救う

その8年後に当たる1569(永禄12)年、武田信玄が小田原城に迫りました。武田、今川間の同盟が破たんし、信玄が今川家の駿河を攻めたため、氏康は今川氏真に味方し、信玄と交戦状態になっていました。

信玄が率いる武田軍は2万5,000人ほどでしたが、氏康は戦上手の信玄を相手に野戦に出るのを避け、小田原城に篭ります。信玄も本気で小田原城を攻めようとしませんでした。3日ほどの包囲で城下町を焼いたあと、甲斐へ退きます。

氏康は4代目となる氏政に命じ、信玄を追撃しますが、三増峠の戦いで敗れました。氏康の死後、北条氏は再び信玄と同盟することになりますが、謙信や信玄という戦国時代を代表する名将も小田原城を落とすことはできなかったのです。

謙信の場合、10万の大軍といっても大半はいつ寝返るか分からない北関東の軍勢です。信玄が信濃(長野県)から本国の越後を突く動きも見せていました。短期決戦の力攻めしか取る方法がなく、小田原城の堅固さを崩すのは難しかったようです。

信玄は駿河侵攻に北条軍の介入を防ぐことが目的だったと考えられています。北関東の反北条勢力と連絡を取り合っていましたが、これを動員して城攻めすることはなく、武田軍の強さを見せる示威行動に終始したとみられています。

三増峠の戦いで北条軍に打撃を与え、駿河侵攻に介入させませんでしたから、目的を達成したのでしょう。小田原城相手の攻城戦は不利と判断していたのかもしれません。

秀吉との戦いに備え、大阪城をしのぐ大要塞に

1590年の秀吉による小田原攻めの際、小田原城は氏政、氏直父子による大改修が進み、広大な外郭が築かれていました。八幡山から海に至るまで小田原の町が総延長9キロもの土塁と空堀で囲まれていたのです。城の大きさは秀吉の大阪城をしのいでいたと考えられています。

町を城内に取り込むことでより長期間の籠城を可能にしていました。関東各地から大量の将兵を集め、戦力とすることもできます。秀吉との戦を想定していたためで、小田原攻めでは5万とも8万ともいわれる将兵が集められたとされます。

しかし、秀吉の物量は圧倒的でした。16万人ともいわれる大軍で関東各地の支城を次々に落とすとともに、北条氏と同盟関係にあった奥州(東北地方)の伊達政宗も同盟を破棄して秀吉の陣に加わります。相模湾には全国からやってきた秀吉方の水軍が、海上から小田原城を包囲していました。

城内では交戦か和睦かの話し合いが延々と続けられる一方、圧倒的な大戦力を前に将兵の士気が低下、重臣の中に裏切りも発覚します。5代目当主の氏直はついに降伏を決断、城を秀吉に明け渡しました。

戦後、氏政は切腹、氏直は高野山へ追放となり、早雲以来5代続いた北条氏は滅亡しました。秀吉は宇都宮仕置で関東、奥州の諸大名の措置を下します。ここに天下統一が実現したわけです。



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