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第22回 信玄、謙信、氏康、信長…、有力大名がしのぎを削り合った上野の乱世とは

NHK大河ドラマ「真田丸」第22回では、豊臣秀吉の目の前で上野(今の群馬県)沼田城の処遇をめぐり、真田氏と北条氏の論戦がありました。これはもちろん、史実ではなく創作ですが、戦国時代の上野は武田信玄、上杉謙信ら多くの戦国大名が奪い合ってきました。真田氏と北条氏の対立が起きるまで、上野はどのような戦乱の歴史をたどってきたのでしょうか。戦国時代末期の状況をひも解いてみましょう。

氏康の攻勢で関東管領が越後に逃亡

上野は室町時代の後半から戦国時代の半ばまで、関東管領を務めた山内上杉家の勢力範囲でした。関東管領は室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐する役職で、室町幕府の将軍が任命権を持っていました。

戦国時代になると、関東では相模(神奈川県南部)の北条氏の勢力が次第に広がり、山内上杉家は関東の中心部から追われていきます。1546(天文15)年、山内上杉家の当主上杉憲政が武蔵(東京都、埼玉県など)河越城の戦いで北条氏康に大敗を喫すると、上野を拠点に氏康に対抗する格好になりました。

やがて氏康が甲斐(山梨県)の武田信玄と同盟を結ぶと、南の武蔵から氏康、西の信濃(長野県)から信玄が上野をうかがいます。関東地方を支配するはずの関東管領の役職は名ばかりとなり、憲政は苦境に立たされたのです。

信濃の村上義清と同盟を結んでいましたが、義清は信玄に敗れて信濃を追われます。憲政自身も信濃に出陣していますが、小田井原の戦いで信玄に大敗を喫しました。

伊勢崎の那波氏ら東上野の諸将も憲政を見捨てて、北条方に裏切っていきます。その後、西上野の諸将からも北条方につく者が出て、憲政はやむなく越後(新潟県)に逃れます。上杉謙信(当時長岡景虎)を頼るためです。

越後に入った憲政は謙信を養子としますが、上野の上杉方諸将は氏康に抗しきれず、次々に下っていきました。上野の支配権はいったん氏康の掌中にほぼ収まったのです。

謙信が大軍を率い、関東へ進軍

この事態に危機感を抱いた謙信は1560(永禄3)年、越後勢8,000人を率い、氏康討伐に向かいます。謙信の関東出陣には多くの兵が集まり、沼田城、厩橋城など上野にある北条方の城を次々に攻略しました。

厩橋城で年を越した謙信は、さらに攻勢をかけ、3月には氏康の本拠小田原城に迫ります。謙信の勝利を予想し、関東から次々に諸将も参陣、上杉方は10万もの大軍に膨れ上がったと記録に書き残されています。

これに対し、氏康は信玄に救援を依頼しました。信玄は北信濃で謙信の属城割ケ谷城を落とすなど攻勢をかけ、越後に侵攻する気配を見せます。さらに、駿河(静岡県東部)の今川氏真も氏康に援軍を派遣しました。

長期間の出陣で関東の諸将に不満の声が上がっていたこともあり、謙信は包囲を解き、いったん越後へ戻ります。この間、憲政は鎌倉の鶴岡八幡宮で謙信に関東管領職を譲りました。その結果、上野は謙信の勢力範囲になったのです。

このあと、謙信は1561(永禄4)年、北信濃の奪還を目指して川中島で信玄と戦います。戦闘では武田軍に大打撃を与えましたが、北信濃を手に入れることはできませんでした。信玄は次の矛先を上野に向け、謙信は次第に守勢に立たされていきました。

信玄、勝頼父子が上野の大半を支配

謙信は精力的に関東各地へ遠征し、諸城を攻略しますが、謙信が越後へ戻ると氏康が攻勢に転じます。西上野最大の実力者だった箕輪城の長野業正が病没すると、西上野の諸城が次々に信玄の手に落ちていきました。信玄の配下で真田昌幸の父に当たる真田幸隆が、上野に勢力を伸ばしたのもこのときです。

厩橋城代を務めていた北条高広が氏康に通じて謀反を起こします。謙信はいったん厩橋城を取り返すものの、東上野を氏康と分け合う形となりました。上野は西半分が武田領、東半分が上杉、北条の勢力範囲となったのです。

信玄の死後、信玄の四男武田勝頼は謙信の後を継いだ上杉景勝と結び、東上野の上杉領を手に入れます。さらに、敵対した北条方の諸城を攻略、上野の大半を勢力範囲に収めます。この時点で北条領として残ったのは、館林城や金山城など東上野のごく一部でした。

武田氏が滅ぶと、上野には織田信長の配下滝川一益が入りました。いったんは武田氏の所領すべてを支配下に収め、上野のほとんどを得ましたが、1582(天正10)年の神流川の戦いで氏康の孫北条氏直に敗れ、撤退します。その結果、上野の支配権を北条氏と真田氏が争う形となりました。

武田信玄、上杉謙信、北条氏康ら東国を代表する戦国大名がしのぎを削り合った場所が上野なのです。上野に平和が戻るのは、秀吉の天下統一を待たなければなりませんでした。



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