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第20回 戦国乱世を駆け抜けた忍者、映画やアニメの世界とは異なるその実像は

NHK大河ドラマ「真田丸」第20回では、藤井隆さんが演じる忍者の佐助が登場しました。伊賀(今の三重県西部)や近江(滋賀県)の甲賀、信濃(長野県)の戸隠が忍者の里として知られ、古文書にも忍者の記述がいくつか残されています。小説や映画では、真田幸村(信繁)に従う十勇士も、忍術を駆使して大阪の陣で活躍しました。しかし、とても人間技と思えない奇妙な術を使う姿は、アニメやゲーム、映画などあくまでフィクションの世界だけの話で、史実とかなり異なっているようです。忍者の実像に迫ってみましょう。

江戸時代の読本から形作られた忍者のイメージ

一般にイメージされている忍者は、黒い忍び衣装に身を固め、手裏剣を投げて味方のピンチを救う一方、怪しげな忍術で敵を幻惑します。炎や風、雨、煙を自由自在に操る魔法使いのような人物も少なくありません。

このイメージは江戸時代後期の読本から徐々に形作られ、明治以降の小説で完成されたものなのです。江戸時代の読本では、「絵本太閤記」の石川五右衛門、「自来也説話」の自来也らが、怪しげな忍術を操る忍者として描かれています。

小説では、真田十勇士の猿飛佐助や霧隠才蔵、徳川家康に仕えた服部半蔵らを描いた忍者物が、人気を博しました。やがて、くのいちと呼ばれる女性の忍者も登場するようになりました。ただ、ミニスカート風の衣装に網タイツというセクシーな女忍者が出現するのは、戦後の話になります。

映画が普及を始めると、特撮技術を用い、煙とともに消える忍者や動物を自由に操る姿がスクリーンに登場しました。こうして忍者という言葉が世間に定着する一方、史実とはかけ離れた忍者像が完全に定着したのです。

特殊な戦闘技能を持ち、ゲリラ戦で力を発揮

忍者が登場したのは源平時代以降、日本が武家社会になってからだと考えられています。怪しげな忍術を使う存在ではなく、特殊な戦闘技能を持ち、ゲリラ戦に力を発揮した集団だとみられています。

忍者の存在が初めて知られるようになったのは、1487(長享元)年の鈎の陣の戦いです。室町幕府9代将軍の足利義尚率いる幕府軍が、幕府の命に背いた近江の六角氏を討つため、甲賀城を攻撃しました。

この際、六角氏は甲賀、伊賀の忍者集団と連携し、山中に潜んでゲリラ戦を展開します。この戦いは義尚が陣中で病没するまで3年にわたって続き、忍者集団の戦上手ぶりを世間に知らしめる結果となりました。

甲賀や伊賀は鎌倉時代、荘園が置かれ、守護や地頭がいませんでした。戦国時代に荘園が崩壊すると、地侍の群雄割拠状態が続き、小規模の戦闘が繰り返されるうちに、腕が磨かれ、独自の戦闘技能を持つ集団が誕生したといわれています。

忍者は忍刀と呼ばれる小ぶりの刀や手裏剣を使う者もいました。手裏剣は棒状から十字型、丸型とさまざまな形のものがありましたが、重いためにせいぜい3~4枚しか携帯できなかったようです。時代劇のように味方のピンチにいくつも手裏剣を投げることはできなかったわけです。

黒装束の忍び衣装も着ていませんでした。普通の侍や農民の格好をし、怪しまれないよう刀の代わりに鎌などの農具を武器として携帯することもありました。戦闘以外の任務はスパイ活動。戦闘になっても逃げやすいよう鎖帷子も着用しなかったとみられています。

武田信玄が歩き巫女を使い、各国の情報を収集

女性の忍者もいました。甲斐(山梨県)の武田信玄は歩き巫女の集団を使い、敵国の情勢を探っていたようです。歩き巫女は特定の神社に所属せず、各地を回って祈祷や勧進をしていました。信玄は信濃の豪族の未亡人望月千代女に命じ、孤児や捨て子を育てて各地に放っていたとされます。

歩き巫女に国境はなく、どこへでも怪しまれずに出かけられます。このため、各国でさまざまな情報を収集し、連絡役を通じて信玄に報告していたようです。望月千代女の巫女修練道場があったのは、信濃の小県郡祢津村。真田家発祥の地真田郷とも近い場所で、信玄の近くに仕えた真田家は、武田家の滅亡後に女忍者の諜報活動を継承したともいわれています。

真田家では甲陽流忍術の家元禰津信政、武田家で甲州の忍者を統括していた出浦昌相らが忍者として記録に残っています。織田信長の配下では、武将に上り詰めた滝川一益が忍術修行をしていたという説があります。

戦国時代は文字通り、食うか食われるかの戦いが果てることなく続いていました。戦闘経験が豊富で、情報収集に長けた忍者は、貴重な存在と受け止められていたのでしょう。ただ、その活動ぶりがフィクションの世界と違い、非常に地味だったことは間違いありません。



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