MENU
このエントリーをはてなブックマークに追加

第18回 1586年の豊臣秀吉、統一目前で勢いは最高潮


NHK大河ドラマ「真田丸」第18回では、真田昌幸が上洛し、豊臣秀吉に臣従を誓いました。1586(天正14)年のことで、秀吉にとっては主君織田信長の死から4年後になります。秀吉は前の年に関白に就任、さらにこの年、正親町天皇から豊臣の姓を受けたほか、太政大臣に任命されました。信長の後継者として着々と天下統一を進めていたわけですが、このころ国内はどうなっていたのでしょうか。1586年の状況を調べてみましょう。

前年までに国内の大部分を支配下に

秀吉は信長の死後、謀反を起こした明智光秀を破り、織田家の後継者に信長の孫三法師(後の織田秀信)を据えます。その後、対立した織田家筆頭家老の柴田勝家や信長の三男織田信孝を倒し、事実上信長の後継者の地位をつかみました。

信長の次男織田信雄、徳川家康と小牧長久手で戦いますが、信雄と和睦し、家康とも講和を結びました。さらに、紀州の雑賀党、四国の長宗我部元親を破り、南海道を平定。その間、中国地方の毛利輝元も従えます。

1586年初頭の時点で秀吉の勢力範囲は近畿、中国、四国の全域、越中(今の富山県)以西の北陸、尾張(愛知県西部)、美濃(岐阜県南部)、飛騨(岐阜県北部)にまたがり、国内の大部分を勢力範囲に収めていたのです。

公家近衛前久の養子となって関白の地位を手に入れ、天下に号令する権限も手にします。摂津(大阪府北部、兵庫県南東部)石山本願寺の跡に大阪城を築き、その権力は頂点を極めようとしていました。

有力大名が上洛し、次々に臣従

秀吉の力が及んでいない地域は、西だと九州だけ。九州では薩摩(鹿児島県西部)の島津義久が九州統一に向け、攻勢をかけていました。島津に押された豊後(大分県)の大友宗麟、肥前(佐賀、長崎県)の龍造寺政家は秀吉に友好的な立場を取っていました。

東国では、家康のほか、越後(新潟県)の上杉景勝、関東の北条氏政、氏直父子、奥州の伊達政宗ら有力な戦国大名が健在でしたが、秀吉と正面から対抗できる勢力を持つ者は1人もいません。当時の真田昌幸もそんな戦国大名の1人でした。

そんな中、秀吉はまだ従っていない戦国大名に上洛して臣従するよう求めます。各大名にとって圧倒的な戦力差を考えると、秀吉に対抗しても勝ち目がありません。大名の意地を貫いて敗北覚悟で徹底抗戦するか、家の存続を図るために臣従するかの二者択一を迫られていたわけです。

1586年はドラマで描かれた通り、多くの大名が秀吉に臣従します。上杉景勝は信長と激しく争いましたが、秀吉とは友好関係にあり、賤ヶ岳の合戦では越中に攻め込んで柴田勝家側の佐々成正を釘づけにしました。そうした関係もあり、秀吉に従い、越後を安堵されました。

家康には小牧長久手の戦いで秀吉は苦杯をなめされています。秀吉は家康の実力を評価し、妹の旭姫を離婚させたうえで家康の継室(後妻)とし、母親の大政所を人質に差し出して懐柔、臣下に加えました。

信濃(長野県)と上野(群馬県)の一部を領有する小大名に過ぎなかった昌幸は、秀吉を天下人の器量と認め、上洛して臣従しました。ドラマでは次男の幸村(信繁)が真田家安泰のために奔走しますが、資料が残っていないので、当時の状況は分かっていません。

天下統一後、秀吉の勢いに陰り

秀吉は翌年、九州に攻め込み、島津義久を降伏させます。さらに、3年後の1589(天正17)年、関東の北条氏を滅ぼしました。この際、伊達政宗ら奥州の大名たちも秀吉の軍に相次いで加わり、天下統一が達成されたのです。

しかし、秀吉の隆盛も陰りを見せ始めます。弟で補佐役として秀吉を支えてきた秀長や後継者に指名していた息子の鶴松が相次いで病死。その後、朝鮮出兵も失敗に終わり、後継者として関白に据えた甥の秀次を謀反の罪で切腹させます。

後継者として三男の秀頼が生まれますが、天下統一を目前にしたころの勢いは秀吉になく、良くない出来事が秀吉の周囲で起きるようになっていきました。ドラマで描かれた1586年は、秀吉が最も輝いていたころだといえそうです。



スポンサードリンク