MENU
このエントリーをはてなブックマークに追加

第17回 歌舞伎の創始者出雲阿国、謎に包まれたその生涯とは

NHK大河ドラマ「真田丸」第17回では、歌舞伎の創始者といえる出雲阿国が登場しました。確実な記録はごくわずかしか残っていない人物ですが、安土桃山時代から江戸時代の初期にかけ、一世を風靡した芸人で、阿国のかぶき踊りから女歌舞伎が生まれ、それが現在の歌舞伎につながったといわれています。京都市東山区には華麗に舞う阿国の銅像が建てられ、名物に1つになっていますが、どんな人物だったのでしょうか。数少ない資料の中から実像に迫ってみましょう。

伏見城でも度々、踊りを上演

阿国は出雲(今の島根県東部)の出身で、出雲大社の巫女となり、庶民の救済のため諸国を回っていたときに評判になったと伝えられます。ただ、安土桃山時代の資料から阿国が出雲出身であるという証拠は見つかっていません。

ただ、時慶卿記という古文書に「1600(慶長5)年にクニと名乗る女性がややこ踊りを舞った」という記録が残っています。ややこ踊りは少女による小歌踊りです。

江戸時代初期の寛永年間(1624~44年)に書かれた歴史書「当代記」には、クニは安土桃山時代に京都で人気者となり、豊臣秀吉の伏見城に度々、参上して踊りを披露したと記載されています。このクニが出雲の阿国だと考えられているわけです。

奈良興福寺の搭頭多聞院で室町時代から江戸時代にかけて書かれた僧侶の日記「多聞院日記」にクニと関係するかもしれない記述があります。それによると、1582(天正10)年、奈良の春日大社でややこ踊りが8歳と11歳の少女によって演じられたというのです。

記述は「加賀国8歳11歳の童」。加賀(石川県南部)出身の8歳と11歳の少女が踊ったというのと、8歳の加賀、11歳の国(ともに人名)が踊ったという2通りの解釈が出ています。加賀、国が少女の名前という解釈に従えば、阿国は1572(元亀3)年生まれと推量できますが、どちらの解釈が真実かは決着がついていません。

夫は安土桃山時代きってのイケメン名古屋山三郎?

阿国の夫は蒲生氏や森氏に仕えた安土桃山時代の武将・名古屋山三郎といわれています。山三郎は尾張(愛知県西部)出身で、母方が織田氏の縁戚に当たります。織田信長の弟信包に一時仕えたとされ、その後蒲生氏郷の小姓となりました。

氏郷に従い、九州の島津戦、小田原の北条戦に参加したほか、1590(天正18)年の陸奥(東北地方)名生城攻略戦や1591(天正19)年の九戸政実の乱で1番槍の手柄を立て、2000石の身分に加増されました。

しかし、氏郷の死後、蒲生氏を離れ、京都で浪人したあと、森忠政の家臣となります。森氏が関ケ原の合戦で功績を上げ、美作(岡山県北部)の津山藩主となったあと、同僚といさかいを起こして斬り殺されました。

山三郎は安土桃山時代きっての色男で、遊芸に通じていたようです。京都で数々の浮き名を流し、信長や秀吉に仕えた大名の細川藤孝は「山三郎が身につければ粗末な衣服も錦に勝る」と美貌を絶賛する記録を残しています。

阿国とともに歌舞伎の祖となったという説もありますが、その辺りの事情は詳しく分かっていません。歴史学者の小和田哲男静岡大名誉教授は著書「日本の歴史がわかる101人の話」(2008年、三笠書房)で、2人の関係を伝説とみるべきとしています。

阿国のかぶき踊りが現在の歌舞伎に

阿国は1603(慶長8)年、京都の四条河原で小屋をかけ、かぶき踊りを舞います。かぶき踊りはかぶき者と呼ばれる派手な格好をした若い男の姿をした踊りで、男装して登場した阿国が女装させた男性相手に舞う姿が、都人の心をとらえました。

御所内の女院でもかぶき踊りが上演されました。舟橋秀賢という武将の日記には、出雲出身の女性が女院でかぶき踊りをしたという趣旨の記述が残っています。その後、かぶき踊りは遊女の間で広まり、わずか10年ほどの間に全国で踊られるようになりました。

阿国は1607(慶長12)年、江戸城で勧進歌舞伎を上演したあと、消息を絶ちます。1612(慶長17)年に京都御所で上演したともいわれますが、これが阿国の一座かどうかは確定していません。

阿国の没年はさまざまな説があり、はっきりしません。2代目の阿国がいたという説も出ています。墓は出雲大社の近くや京都大徳寺の高桐院にあり、どこで死んだのかも不明のままですが、旧暦の4月15日が阿国忌とされています。

阿国の踊りも遊女の踊りも茶屋遊びを描き、かなりエロチックなものだったらしく、幕府は1629(寛永6)年、女性の芸能者が舞台に立つことを禁じます。やがて男性の芸能者が舞台で女性を演じるようになり、今の歌舞伎につながったと伝えられているのです。



スポンサードリンク