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第12回 上杉家の家訓「義」は江戸時代の負け惜しみ?

NHK大河ドラマ「真田丸」第12回では、上杉家の人質となった真田幸村(信繁)が上杉景勝と対面するシーンがあり、景勝は「上杉家は『義』のある戦いしかしない」と語りました。「義」という言葉は「人の行いが道理や倫理にかなっていること」(大辞林)と解釈されています。劇中でも「正しい行い」、「損得から離れた」との意味で使われ、景勝の養父上杉謙信が常に大切にしていた言葉だとされています。上杉家の家訓ともいえる「義」とは一体、どんなものだったのでしょうか。

江戸時代に「義」が武士の行動規範に

「義」という言葉は古代中国から使われてきました。孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と述べました。「人に道として当然しなければならないのを知りながら、これを実行しないのは勇気がない」という意味です。孟子は「仁は人の心、義は人の道」と説きました。

江戸時代になって武士道が確立され、「義」が武士の行動規範にされると、さまざまな著述に「義」の定義が登場します。江戸後期の経世論者で、寛政の三奇人の1人に挙げられる林子平は「道理に従い、ためらわずに決断する力。死すべきときに死し、討つべきときに討つ」としました。

久留米藩士で尊皇攘夷派の活動家として知られる真木和泉は「義は体を支える骨のようなもの。義がなければ才能や学問があろうとも、人は武士たり得ない」とし、武士の行動規範で大切なものとしています。

戦国時代は家臣が主君を追い落とす下克上や裏切りが当たり前の時代です。領地と領民、家臣の暮らしを守り、利益を与えられる強い大名、武将が、人心を集めていました。「義」の精神を掲げる武将などほとんどおらず、人々の心に「義」の大切さが積極的に伝えられるようになったのは江戸時代に入ってからなのです。

義理堅さで信頼された謙信の人柄

弱肉強食の戦国時代、謙信は他の戦国大名と比べ、変わり者だったいえるでしょう。織田信長や武田信玄は同盟を結んでいても、敵対すれば容赦なく攻めかかりました。暗殺やだまし討ちという手段を取ることもためらいませんでした。

しかし、謙信は決してそのような手段を取りません。出兵は大義名分にこだわり、有利な状況というだけで敵に攻め込もうとしませんでした。形ばかりとなった室町幕府に最後まで忠実で、一度取り交わした約束事を決して破らない義理堅さを持ち合わせていました。

幕府から東国を統括する関東管領に任命されると、17回も関東に出兵し、相模(今の神奈川県南部)の北条氏康、甲斐(山梨県)の信玄らと戦っています。武田軍と正面から激突した1561(永禄4)年の信濃(長野県)川中島の合戦も、信玄に国を追われた信濃の豪族の要請に基づいて出陣したものでした。

しかし、関東や信濃への出兵はほとんど徒労に終わり、兵士の損出を重ねただけになります。関東と信濃は北条、武田の勢力範囲になっていきました。そして、徒労に終わる出兵が家臣に重い負担を強います。その結果、有力武将や越後(新潟県)の豪族の反乱に生涯、悩まされました。ライバルの信玄が人の心をつかむことを最優先し、家中の団結を維持したのに対し、謙信は自らの信念を優先させ、家臣に無理を強いた結果と考えられています。

ただ、こうした義理堅さは氏康や信玄も認めていました。氏康は「謙信は一度請け負ったら、骨になっても義理を通す」と高く評価したそうです。信玄も死に際し、後継者の武田勝頼に「謙信を頼れ」という言葉を残したと伝えられています。

講談で庶民に広まった謙信の「義」

上杉家は関ケ原の合戦のあと、徳川家康に臣従しますが、この際陸奥(東北地方)会津120万石の領地を米沢30万石に減封されました。さらに、景勝から3代目に当たる上杉綱勝が1664(寛文4)年、後継ぎのないまま死亡すると、15万石に半減させられます。

米沢転封以来、財政は逼迫を極め、家臣の苦しい生活も続いていました。これに対し、かつてのライバル武田家は既に滅亡しているにもかかわらず、家康が野戦で敗れた唯一の相手として幕府から高く評価され、甲州流軍学がもてはやされていたのです。

上杉家のプライドがズタズタに切り裂かれていたことは十分に想像できます。そんな折に、定着し始めたのが儒教に基づく「義」の精神でした。信玄との川中島での激闘は講談などで語られ、広く知られるようになっていきました。

その中で、謙信の義理堅さが次第に評価を高めていくことになるのです。上杉家も謙信の「義」を積極的に継承していきます。そこには悔しいことばかりが続く苦境の中で、家臣の心を1つにしようとする思惑が込められていたのかもしれません。



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