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第10回 秀吉が豪華な葬儀で信長の後継者を京都の民衆にアピール

NHK大河ドラマ「真田丸」第10回では、上野(今の群馬県)沼田城をめぐり、真田昌幸と北条氏政が徳川家康、上杉景勝を巻き込んで激しく争いましたが、このころ京都では、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が主君織田信長の葬儀を執り行っています。葬儀といっても死後、100日ほど経過していますから、実際は100カ日法要です。同じ時期に織田家筆頭家老の柴田勝家も信長の100カ日法要を行っていますが、秀吉はこの葬儀をきっかけに事実上、信長の後継者の地位を固めることに成功しました。なぜ勝家は失敗し、秀吉は成功したのでしょうか。京都の民衆の世論を味方につける秀吉の緻密な戦略が功を奏したのです。

重臣4人で後継者を選ぶ清洲会議

いったんここで当時の状況を整理してみましょう。信長が家臣の明智光秀の謀反により、京都・本能寺の変で横死したのが1582(天正10)年の6月2日です。このとき、信長が既に織田家の家督を譲っていた嫡男の信忠も死んでいます。織田政権の崩壊で天下を握った光秀でしたが、秀吉に山崎の合戦で敗れ、落ち延びる途中で命を失いました。

信長の後継者となりうる人物として、織田家では信忠の長男で信長の孫にあたる三法師(後の織田秀信)、信長の次男で伊勢(三重県)北畠氏に入っていた信雄、三男で伊勢神戸氏を継いでいた信孝、四男で羽柴秀吉の養子となっていた秀勝が挙げられます。

家臣団では筆頭家老の柴田勝家、重臣の丹羽長秀、信長の乳兄弟池田恒興、新参ながら信長の信頼を受けて出世した羽柴秀吉、滝川一益らがいました。尾張(愛知県西部)の清洲城で信長の後継者について話し合ったのが、6月27日の清洲会議です。

会議は織田家の重臣のみで進められることになり、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人が参加しました。滝川一益は関東で出陣中のため参加できなかったとも、武蔵(東京都、埼玉県、神奈川県北部など)神流川の合戦で北条氏に敗れたことを理由に参加を拒まれたともいわれています。

秀吉の意見が通り、家督は三法師に

会議は筆頭家老の勝家と、光秀を倒した秀吉の意見が対立します。勝家は自分が烏帽子親になっていた三男の信孝を後継者に推したのに対し、秀吉は信長の孫で、わずか2歳の三法師を推挙したのです。

秀吉は養子としていた秀勝を推さず、血統上の正当性が高い三法師を推薦したことから、長秀の支持を受けました。そこで話し合いの結果、三法師が家督を継ぎ、信孝が織田家に戻って後見人となることで決着します。

勝家には信長の妹市が嫁ぐことになりました。以前は信孝の仲介とみられていましたが、勝家の書状で清洲会議の結果に不満を持つ勝家を懐柔するため、秀吉が動いていたことが明らかになっています。

豪勢な葬列で勝家を出し抜く

しかし、市と結婚できたからといって、勝家の不満が解消されるわけもありません。勝家と秀吉の対立は次第に深まっていきました。勝家は市を喪主に立て、京都の妙心寺で信長の100カ日法要を営みます。筆頭家老の立場を示そうとしたわけです。

これに対抗して秀吉は、同じ京都にある大徳寺で大規模な法要を執り行いました。日程は10月11日から17日までの7日間。このうち、15日には葬儀を行い、豪華な棺に信長そっくりの木像を収め、火葬にしたのです。

棺の後ろには、信長の太刀を手にした秀吉と3,000人の参列者が続く豪華な葬列。火葬場までの間にも完全武装の兵士が警備に当たるなど、豪勢さで京都の民衆の度肝を抜いてみせました。この豪華な葬儀に京都の人たちは驚き、沿道は人でごった返したと伝えられています。

秀吉は信長の敵討ちを成し遂げましたが、織田家中1番の地位にあるわけではありません。朝廷からもらう官位もそれほど高くありませんでした。そこで都の世論を味方につけ、信長の事実上の後継者が秀吉であることを示そうとしたのでしょう。その思惑はピタリと当たりました。人たらしの名人らしい秀吉のイベントが、勝家を出し抜いたわけです。

賤ヶ岳の合戦で勝家に勝利

その後、勝家は信孝、滝川一益と連携し、秀吉に対抗します。これに対し、秀吉は美濃(岐阜県南部)岐阜城の信孝を攻めて降伏させました。勝家はこれに怒り、挙兵します。1583(天正11)年、勝家と秀吉は近江(滋賀県)の賤ヶ岳で激突しました。信孝も岐阜城で再度挙兵しています。

賤ヶ岳の合戦は秀吉の勝利となり、勝家は越前(福井県東部)北ノ庄城で妻市とともに自害しました。信孝も兄の信雄に攻められて降伏、自害を命じられました。織田家中の対抗勢力を一掃した秀吉は事実上、信長の後継者としての地位を固めます。そのきっかけとなった大きな出来事の1つが、信長の葬儀だったのです。



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