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第9回 天下無双の豪傑とうたわれた本多忠勝、真田家と結ばれた深い縁とは

NHK大河ドラマ「真田丸」第9回で、徳川家康の家臣本多忠勝が真田昌幸ら旧武田家家臣を見方に引き入れようと提案するシーンがありました。ベテランアクション俳優の藤岡弘さんが演じるだけに、いかにも豪傑という感じが漂ってきます。戦場で愛用した槍は天下三名槍の1本「蜻蛉切」。史実上も天下無双の豪傑と呼ばれた猛将で、徳川四天王の1人に数えられていますが、実は真田家と深い関係を持つことになります。どんな人物だったのか、真田家との深い縁について探っていきましょう。

桶狭間の合戦で初陣

忠勝は1548(天文17)年、徳川家に代々仕えた本多家の長男として生まれました。通称は平八郎。父は忠高で、出生地は三河(今の愛知県東部)と伝えられています。当時、徳川家は松平姓を名乗り、駿河(静岡県東部)の今川義元に服属していました。

生まれて間もなく父の忠高が戦死したため、叔父の忠真のもとで育てられ、1560(永禄3)年の桶狭間の合戦が初陣となりました。桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討ち取られ、徳川家が三河の独立大名になると、忠勝は家康旗本部隊の将として豪傑ぶりを発揮します。

1561(永禄4)年の鳥屋根城攻めには、忠真の部隊に加わりました。忠真が敵将を槍で刺し、「この首を取って手柄にしろ」というと、それを拒んで敵陣に切り込み、初首を上げてきたという逸話が残っています。まだ13歳の若武者なのに、大物ぶりを早くも発揮したわけです。

敵将も認める天下無双の豪傑ぶり

忠勝の豪傑ぶりを有名にしたのが、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍が激突した1570(元亀元)年の姉川の合戦でした。約1万人といわれる朝倉軍に単騎駆けし、朝倉軍随一の豪傑とうたわれた真柄直隆と一騎打ちしたのです。勝敗はつかなかったようですが、忠勝の勇名は西国で一気に高まりました。

1572(元亀3)年、西上する武田信玄軍を迎え撃った一言坂の合戦では、偵察隊として先行したところ、武田本隊と遭遇し、退却を余儀なくされます。しかし、忠勝は殿を努め、家康を無事に退却させることに成功しました。

忠勝は敵中に取り残されてしまいますが、忠勝の豪傑ぶりに感激した信玄の近習小杉左近が退路を開け、忠勝を見逃しました。忠勝は左近に礼をいい、退却していきます。左近はこのとき、「家康に過ぎたものが2つあり。唐の頭(中国製の兜)に本多平八」と忠勝をたたえたといわれています。このときから、忠勝の勇名は東国でも鳴り響くようになりました。

本能寺の変で信長が討たれた際、家康とともに和泉(大阪府南部)の堺にいました。取り乱す家康をいさめ、山が厳しい伊賀(三重県西部)を越えて本拠地の三河まで逃げるようにさせたのも、忠勝の功績です。生涯57回の合戦に挑みながら、1度もかすり傷さえ負わなかったと伝えられています。

真田家と縁結び、昌幸、幸村父子の助命を嘆願

真田家との縁が生まれたのは、長女の小松姫を真田信之に嫁がせたことからです。婚姻は1586(天正14)年とも1590(天正18)年ともいわれています。第1次上田合戦で真田の軍略に惚れ込み、見方に取り込もうとした政略結婚とみられます。1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦の直前、信之が父昌幸、弟幸村と離れ、東軍につくきっかけを作りました。

関ヶ原の合戦が東軍の勝利に終わると、西軍についた昌幸、幸村父子の処遇が問題になります。昌幸らは信濃(長野県)上田城で家康の嫡男秀忠が率いる徳川軍の主力を足止めしたため、秀忠は合戦に間に合うことができませんでした。

秀忠は怒り、昌幸、幸村父子の処刑を家康に求めます。これに待ったをかけ、除名を嘆願したのが忠勝と信之でした。家康は強硬に拒んでいましたが、ついに折れて嘆願を認め、昌幸、幸村を紀伊(和歌山県)高野山麓の九度山に蟄居とします。忠勝の助命嘆願がなかったら、幸村の大阪の陣での活躍もなかったのです。

伊勢桑名10万石の大名に

忠勝は1601(慶長6)年、伊勢(三重県)桑名に10万石の所領を与えられました。旧領の上総(千葉県南部)大多喜は次男の忠朝が別家5万石として治めることのなったのです。家康は忠勝の功績に応え、さらに5万石を与えようとしたのですが、固辞したため、忠朝に与えたとされています。

その後、忠勝は眼病を患い、1609(慶長14)年に家督を嫡男の忠政に譲って隠居しました。翌1610(慶長15)年、桑名で死去しました。臨終に際し、「主君に忠節を守るのが侍である」という言葉を残しています。



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