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第8回 「春日信達」偉大な父を越えられなかった悲運の部将

NHK大河ドラマ「真田丸」第8回では、上杉、北条家の間を智謀で生き延びようとする真田昌幸の姿が描かれました。その中でしたたかに生き延びる昌幸とは正反対に裏切りの末に暗殺され、張りつけにされる春日信達という武将が登場しました。父は農民から甲斐(今の山梨県)の武田信玄に仕え、武田四天王に数えられるまで出世した高坂昌信。信達自身も国境の守りの要となる信濃(長野県)の海津城代、駿河(静岡県東部)三牧橋城代を務めるなど重責を任されましたが、武田氏の滅亡後あっけなく滅んでしまいました。春日信達とはどんな人物だったのでしょうか。

父昌信とともに北信濃の守りに尽力

信達の出生年は分かっていませんが、父の昌信が海津城代だったころ、次男として誕生しました。高坂昌元、春日昌元と名乗っていた時期もあります。長兄の昌澄が1575(天正3)年の長篠の合戦で戦死したため、春日家の跡を継ぎました。

父の昌信は甲斐の農民出身ながら、信玄に才能を認められ、海津城代として上杉謙信の抑え役を任された名将です。江戸時代初期にまとめられた軍学書「甲陽軍鑑」は、昌信の言葉を中心にしてまとめられたものとして知られています。

上杉謙信との川中島の戦いなど信玄の主な戦いに従軍し、多大な武功を挙げていました。内政や外交面で手腕を発揮したほか、上杉の勢力を信濃から駆逐するなど知略の面でも優れた才覚を示しています。

信玄の時代に信達がどのような働きを見せたのかはよく分かりませんが、偉大な父のもとで信濃の守りに尽力していたと見られています。

北条氏に備え、駿河三牧橋城代に抜擢

信玄の死後、武田の跡を継いだ勝頼は長篠で大敗を喫しました。昌信は海津城代として信濃に残されていましたが、代わりに出陣した嫡男の昌澄は織田徳川連合軍との戦いで戦死します。

跡継ぎとなった信達は父昌信とともに、越後(新潟県)上杉氏との外交交渉役を務め、謙信の跡を継いだ上杉景勝と甲越同盟を結びました。1578(天正6)年に昌信が死ぬと、後継者として海津城主を任されています。

上杉との同盟が結ばれ、北の安全は保障されましたが、今度かかつての同盟国相模(神奈川県南部)との関係が悪化しました。そこで信達は北条領との境に近い駿河三牧橋城代に転任します。親の七光りはあったかもしれませんが、勝頼からも一定の信頼を寄せられていたことは間違いないようです。

一揆勢を率い、森長可を信濃から追放

織田徳川両軍が1582(天正10)年、甲斐に攻め込むと、信達は三牧橋城を放棄して甲斐の新府城へ戻り、勝頼に同行を願い出ます。しかし、勝頼の側近に退けられました。近くの戸倉城が北条軍に攻め落とされたため逃げたという説と、勝頼の身を案じたという説が出ています。

武田氏の滅亡後は織田信長に従い、織田氏の配下森長可に属しました。しかし、本能寺の変で信長が死ぬと、旧武田家臣や農民を率いて一揆を起こします。猿ケ馬場峠の戦いでは撃退されましたが、結局森長可は一揆衆に追われる形で信濃から逃亡しました。

しかし、この際信達も人質に出していた嫡男の庄助を殺害されるなど手痛い犠牲を強いられています。一揆を利用して独立大名を目指したのかもしれませんが、父のような見事な手腕を発揮することはできなかったのです。

裏切りの罪で処刑され、滅亡

このあと、信達のいる北信濃をめぐり、上杉と北条が争うようになります。信達は当初、上杉につき、海津城を任されました。しかし、真田昌幸から北条へ寝返りの誘いを受け、上杉勢を挟み撃ちにする約束が発覚、処刑されたといわれています。ドラマの暗殺劇は創作のようです。いずれにしろ、これで父昌信が一代で築いた春日氏嫡流は滅亡したのです。

1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦のあと、森長可の弟森忠政が初代川中島藩主として北信濃へやってきました。森家に残る古文書などによると、忠政は兄の恨みを晴らそうとして、信濃に残る信達の一族全員を残らず探し出し、処刑しました。

乱世をうまく生き延び、明治まで続いた真田氏と、一族惨殺という悲惨な結果を招いた春日氏。同じ旧武田家臣でも明暗を分ける結果となってしまいました。



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