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第7回 武田を裏切った木曽義昌、その後の人生は

NHK大河ドラマ「真田丸」第7回では、信濃(今の長野県)南部にある木曽地方の領主木曽義昌が登場しました。平安時代末に平氏を破って京都を制圧した源義仲(木曽義仲)の子孫を名乗る豪族で、甲斐(山梨県)の武田信玄に服属後は信玄の娘真理姫を妻とし、同じ源氏の末裔である武田一門となりました。しかし、義兄の武田勝頼を裏切り、織田徳川連合軍侵攻のきっかけを作っています。義昌とはどんな人物で、彼の子孫はその後、どうなったのでしょうか。

信玄に降伏、武田一門に

義昌は1540(天文9)年、木曽地方を治める木曽福島城主木曽義康の長男として生まれました。その1年後、武田信玄が武田氏の家督を継ぐと、信濃への侵攻を始めます。義昌の父義康は当初、信濃の豪族らと連携し、信玄に対抗しますが、1555(弘治元)年、信玄に降伏しました。

木曽地方は隣接する美濃(岐阜県南部)、飛騨(岐阜県北部)との国境地帯。交通の要衝であり、木材の産地としても知られていました。信玄は娘の真理姫を義昌に正室として嫁がせ、領地を安堵して木曽氏を武田一門に組み込んだのです。真理姫は信玄の3女といわれることが多いですが、4女、5女という説もあります。勝頼からすると妹に当たり、義昌との間に嫡男の義利らが生まれています。

この政略結婚により、木曽地方は美濃、飛騨への最前線基地と位置づけられました。1560(永禄3)年には、飛騨の姉小路良頼の信濃侵攻を食い止めたほか、東美濃の遠山氏を信玄に従わせます。1564(永禄7)年、信玄の飛騨出兵には木曽氏も兵を派遣するなど、親子で信玄に忠節を尽くしていました。

武田を裏切り、織田方へ

武田氏の主が勝頼に代替わりし、父の義康が死んだあとも、義昌は武田一門として行動していましたが、新府城造営に多額の費用と労働力を提供されたことに反発し、1582(天正10)年、織田信長からの誘いを受けて織田方に寝返ります。

家臣の気持ちを常に考え、細やかな配慮を示した信玄と異なり、独断専行型で無謀な戦いを強いる勝頼の姿勢に、以前から不満を持っていたともいわれています。激高した勝頼は木曽討伐軍を起こしますが、信長の援軍を得た義昌は2度にわたってこれを撃退しました。この戦いがきっかけになり、織田徳川連合軍が信濃に侵攻、武田氏は滅亡します。

戦後、信長から戦功として安曇、筑摩2郡を加増され、南信濃随一の大名となりました。深志城(後の松本城)に城代を置き、松本地方の経営に当たります。しかし、本能寺の変が起きると、信濃も大混乱に陥り、越後(新潟県)の上杉景勝の支援を受けた前信濃守護小笠原長時の弟洞雪斎に深志城を奪われ、本領の木曽へ撤退しました。

家康とともに関東へ移封

これからは北信濃の真田氏と同様に次々に主を変えながら、生き残りを図っていきます。旧武田領を徳川家康と相模(神奈川県南部)の北条氏直が争うと、初めは氏直に従い、やがてこれを裏切って家康に味方しました。ところが、家康と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が対立すると、義昌は秀吉側についたのです。

家康は義昌に安曇、筑摩2郡を与えると約束していましたが、小笠原長時の子貞慶の深志城復帰も認めていました。義昌はこれに反発して秀吉に従ったともいわれています。家康は妻籠城に軍を派遣しましたが、義昌が撃退しました。

ところが、秀吉が北条氏を滅ぼし、関東に家康を移すと、義昌も家康に従って関東へ領地を変えるよう命じられます。新しい領地は下総(千葉県北部、東京都東部など)阿知戸。先祖伝来の地木曽を追われたばかりか、石高も削られ、1万石とも2万石ともいわれる小大名となってしまいました。阿知戸は現在の千葉県旭市網戸に当たります。

義利の乱暴行為で改易

義昌は阿知戸の城下、道路の整備や湿地帯の開墾に力を入れ、名君と讃えられましたが、経済的に困窮し、失意の中で1595(文禄4)年、この世を去りました。跡目は義利が継ぎますが、義利は叔父の植松義豊を殺害するなど乱暴行為が目立ち、1600(慶長5)年に改易されます。

次男の義成は大阪の陣で豊臣秀頼の浪人募集に応じ、西軍に加わりましたが、討ち死にしています。3男の義通は母の真理姫とともに木曽谷で旧家臣に保護されました。真理姫は1647(正保4)年に98歳でこの世を去っています。この時代では驚くほどの長寿でした。




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