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第6回「小山田茂誠(高木渉)」真田氏の生き残りを見届けた忠臣

NHK大河ドラマ「真田丸」で、人気声優の高木渉(たかぎ わたる)さんが高い演技力を披露し、話題を集めています。第6回放送でも湖に身を投げた妻を悲しむ演技が、とても印象に残りました。演じているのは真田昌幸の長女で、信之、幸村兄弟の姉村松殿の夫である小山田茂誠(おやまだ しげまさ)。後に信之の子孫が代々、藩主を務めた信濃(今の長野県)松代藩の次席家老となる人物ですが、それまでどんな経歴を持っていたのでしょうか。謎が多いその生涯をたどってみましょう。

武田を裏切った小山田氏の一門

茂誠は甲斐(山梨県)で代々、武田氏に仕えた小山田氏の一門です。生年ははっきりしませんが、小山田氏の家系によると、1582(天正10)年の武田氏滅亡の際、21歳か22歳だったとされ、生年は1561(永禄4)年か1562(永禄5)年と考えられています。小山田六左衛門、小山田壱岐守とも称していました。

小山田氏には複数の分家が存在していたことが分かっています。近年、発見された古文書などから、茂誠が小山田弾正有誠の息子らしいことが判明しました。村松殿を正室に迎えていたのも、結婚時期に諸説があるものの事実です。

茂誠が仕えた小山田氏の当主信茂は、武田勝頼に謀反して織田信長に寝返りましたが、信長から謀反をとがめられ、殺されました。茂誠も信茂と行動をともにしていたと思われますが、その辺りの記録が残っておらず、詳しいことは分かっていません。

小山田本家ではないので、殺されなかったのかもしれません。辛うじて甲斐を脱出して上野(群馬県)岩櫃城にいた昌幸を頼ったとも、関東に逃れて相模(神奈川県南部)の北条氏政に従ったともいわれています。父有誠の行方は分からないままです。

昌幸に仕え、村松郷の領主に

次に記録に登場するのは、1590(天正18)年に昌幸から信濃の小県郡村松郷に領地を与えられたときです。ただ、最後まで武田氏に従い続けた真田氏に仕える以上、裏切り者の小山田氏一門であるのが不名誉と感じたのか、出自が別系統になる石田小山田氏だと名乗っていました。

石田小山田氏は勝頼の父武田信玄の家臣で、信濃内山城主になった小山田昌辰の一門。昌辰の子昌行は織田、徳川連合軍の甲斐、信濃への侵攻の際、勝頼の弟仁科守信とともに、信濃高遠城に篭城し、織田信忠の軍勢と戦って討ち死にしました。茂誠が本当に石田小山田氏の一門とする説も出ています。

茂誠の妻、村松殿は名前を於国と伝えられますが、領地の村松郷から村松殿と呼ばれるようになったようです。信之や幸村との兄弟仲は良く、幸村が姉に当てて書き送った手紙が多数、残されています。

茂誠と結婚した時期は武田氏が健在のころという説と、茂誠が村松郷に領地をもらってからという説があり、はっきりしません。しかし、2人の間には、嫡男の之知が誕生しています。

信之の代で真田氏の家老に

茂誠は正式に真田氏の家臣になったあと、親族として重責を担うようになり、信之の代になって家臣ナンバー2の次席家老に就いています。関ヶ原以後も実直に信之に仕え、紀伊(和歌山県)の九度山に蟄居させられた昌幸、幸村父子にいろいろな支援物資を送っていました。

蟄居中の幸村が手紙で「歯が抜け、髪も白くなり、体も弱った」と泣き言を吐いた相手は茂誠です。身内だから、こんな愚痴も気軽に書くことができたのでしょうか。深い絆ができていたことは想像できます。

大阪の陣には信之の名代として東軍に加わった信之の子信吉、信政に従い、嫡男の之知とともに出陣しました。幸村が辞世の句を送った相手も茂誠でした。冬の陣と夏の陣の間には短い休戦期間がありましたが、2人が連絡を取り合っていたことが分かっています。敵味方に別れても2人の間には交流が続いていたわけです。

子孫は代々、松代藩の次席家老

真田氏は大阪の陣のあとの1622(元和8)年、上田から松代へ領地を移されます。茂誠は家督を之知に譲り、隠居しました。之知以後の子孫は代々、松代藩の次席家老として藩に仕えました。

茂誠が死去したのは1637(寛永14)年。1561(永禄4)年生まれだとしたら、76歳になります。短命が多い戦国時代から安土桃山時代、江戸時代にしてみると、かなりの長寿でした。正室の村松殿は1630(寛永7)年にこの世を去っていますから、乱世を生き抜いた真田氏の安泰を見守ったうえで夫婦そろって旅立ったのです。



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