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第3回 真田信尹 本家を影から支え続けた功労者

NHK大河ドラマ「真田丸」第3回放送では、真田昌幸の弟信尹が登場しました。有名武将が続々と並ぶ一族の中では、それほど知られた存在ではありません。その生涯についても分からないことが多いのですが、真田家の歴史に分家としてしばしば登場し、本家を影から支え続けました。大阪の陣のあと、討ち死にした幸村の首を見聞したのも信尹だといわれています。いったいどんな人物だったのでしょうか。今回は分家の真田信尹に焦点を当ててみました。

武田軍の一翼を担う

信尹は甲斐(今の山梨県)の戦国大名武田信玄に仕えた真田幸隆の四男として誕生しました。生年には諸説があり、幼名は源次郎。兄に信綱、昌輝、昌幸がいます。一説には昌幸と同じ1547(天正16)年生まれとされ、双子とも母親が側室ともいわれますが、詳しいことは分かっていません。

武田氏研究の第1人者とされる歴史学者芝辻俊六さんの著書「真田昌幸」(1996年、吉川弘文館)によると、7歳のころ、人質として甲府に行き、その後甲斐の旧族加津野昌世の養子となりました。人質ながら信玄に気に入られ、名門の跡継ぎとなったのは兄の昌幸と同じです。

信玄の側に仕えた昌幸とは違い、信玄の子勝頼に出仕しました。江戸時代初期にまとめられた軍学書「甲陽軍鑑」では、騎馬15、足軽10人を率いる槍奉行の地位に就いていたとされます。戦国最強といわれた武田軍の一翼を担っていたわけです。

深沢城攻略で大手柄

武田軍には、山本勘助、高坂昌信、山県昌景ら多くの有名武将がいました。年少だったこともあり、彼らと比べると信尹の名前が歴史書に出てくることは非常に少なく、どんな戦いぶりをしていたのかは明らかでありません。

ただ1度、1571(元亀2)年に信玄が相模(神奈川県南部)北条方の北条綱成が守る駿河(今の静岡県中部)深沢城を攻めた際、綱成の旗指物を奪い取る手柄を立てたことが、明らかになっています。このときの旗は長野県上田市の真田宝物館に残されています。信濃先方衆に1人として武勇を誇っていたことは間違いないようです。

妻には武田家の重臣馬場信房の娘をめとりました。父幸隆が知略で手柄を挙げ続け、信玄から厚く信頼されたこともあり、信尹もかなり大事に扱われていました。武田家が滅亡したあとは真田性に戻り、信尹と名乗り始めます。

他国の情報を昌幸に提供

武田家滅亡時には、兄昌幸とともに上野(群馬県)の岩櫃城にいたようです。その後、真田本家と別行動を取り、信濃(長野県)で越後(新潟県)の上杉景勝に味方すると見せかけて、土豪に北条方につくよう調略するなど、一筋縄でいかない一面を見せました。

最初は北条氏に従ったわけですが、本家と同様に主家を次々に変えます。1584(天正12)年からは駿河に本拠を移していた徳川家康に乗り替えました。昌幸が北条から徳川へくら替えしたときには、仲介役を果たしたと伝えられています。

この間、他国の情報を逐一、昌幸に報告していたといわれています。本家が生き残るための協力を惜しまなかったようです。戦国時代に小大名が生き残るには、他国の正確な情報が必要でした。本家の昌幸にとって、これほどありがたいことはなかったでしょう。本家と分家に分かれて行動したのも、情報交換しながら、生き残りを図る目的があったのかもしれません。

家康からは5,000石で召抱えられ、1590(天正18)年、豊臣秀吉の北条攻めに際し、江戸城を無血開城させる功績を挙げています。しかし、その後、奥州会津の蒲生氏郷にくら替え。氏郷が死ぬと、甲斐に領地を与えられて家康に帰参しました。一時、家康を離れたのは恩賞に不満があったともいわれていますが、真相はどうなのでしょうか。

子孫は直参旗本として存続

1600(慶長5)年の関ケ原の合戦や1614(慶長19)年からの大阪の陣では、軍使として功績を挙げました。大阪の陣では甥の真田幸村に「信濃一国を与える」として東軍に誘ったが、一蹴されたとの説も残っています。

豊臣家の滅亡後も幕臣として仕え、1632(寛永9)年に病死しました。80歳を超す当時としては大変な長生きでした。子の真田幸政からは直参旗本となり、子孫のうち2家は明治維新まで旗本として存続しています。



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