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第2回 武士道の欠片も見えない裏切りの時代

NHK大河ドラマ「真田丸」第2回放送では、甲斐(今の山梨県)の戦国大名武田家の滅亡が描かれました。武田家は源氏の家柄で、最後の当主武田勝頼の父信玄の時代には、戦国最強といわれた軍団でした。それがあっけなく滅んだのは、相次ぐ裏切りがきっかけになりました。「忠臣は二君に仕えず」という武士道の精神を表す言葉がありますが、裏切りに苦い思いをしたのは武田勝頼だけではありません。戦国時代は武士道の精神などほとんど見当たらない弱肉強食の世界だったのです。

武士道精神の成立は江戸時代

武士道という言葉が最初に登場したのは、江戸時代初期に書かれた「甲陽軍鑑」です。武田信玄の重臣高坂昌信の口述を書き記したとされる軍学書ですが、内容は武名を高めて一族の発展に寄与することに主眼を置いています。一般に考えられる武士道とは少し異なる考え方です。

武士道が主君に忠節を保ち、親孝行をして家の名誉を重んじる内容に変わったのは、江戸時代もしばらくしてから。戦のない平和な時代が続き、徳川幕府を中心とした武家社会の安定を支える思想として、儒教の精神を採り入れて発展しました。その結果、「裏切りは卑怯」、「主君と生死をともにすべき」という考え方が全国に広まったのです。

これに対し、戦国時代の主従関係は契約のようなものでした。主君に忠節を尽くすのは御恩の代償と考えられていました。忠節に見合わない主君なら変えても構わないという風潮が一般的で、家臣が主君を倒す下克上も当たり前のように繰り返されました。

一門衆がそろって裏切り

ドラマ「真田丸」で描かれた裏切り者は、穴山信君、木曽義昌、小山田信茂の3将です。穴山信君は別名梅雪。武田の一門に生まれ、母は信玄の姉。勝頼とは従兄弟同士に当たるうえ、勝頼の姉を妻に迎えています。一門の筆頭ともいえる立場で、江尻城代として駿河(静岡県中部)の支配を任されていました。しかし、徳川家康から武田の家名を継がせると誘われ、勝頼を裏切りました。

木曽義昌は父義康の代に信玄の信濃(長野県)侵攻を受け、降伏した外様ですが、信玄の娘で勝頼の妹を妻とし、一門に加わっています。しかし、勝頼の重税に不満を持ち、織田信長と通じて信長の甲斐侵攻のきっかけを作りました。

小山田信茂も祖母が信玄の叔母で武田の一門です。小山田家はもともと甲斐東部の小大名ともいえる勢力でしたが、姻戚関係を結んで長く武田家に仕え、重臣の一角を務めていました。しかし、織田軍が甲斐に攻め込むと、勝頼を見限ったのです。

反乱や謀反は日常茶飯事

武田以外でも家臣の裏切りに手を焼いた大名は数多くいます。信玄のライバルである越後(新潟県)の上杉謙信は、本庄繁長、北条高広ら重臣の反乱が相次ぎ、勢力拡大が遅れました。徳川家康は豊臣秀吉と覇権を争っていたころ、家臣の石川数正が秀吉に寝返り、軍制を一新せざるを得なくなっています。

織田信長は荒木村重、松永久秀らの裏切りに苦しめられたほか、京都の本能寺で最期を遂げたのは、重臣明智光秀の謀反でした。その信長自体、尾張(愛知県西部)統一の際、尾張守護の斯波義銀、主筋に当たる織田信友に反旗を翻しています。

裏切り者で有名なのは、油売りから美濃(岐阜県南部)の戦国大名にのし上がった斎藤道三、ただの浪人から関東の戦国大名に出世した北条早雲です。徳川家康は今川義元が戦死すると、主家の今川を裏切り、独立しています。関ケ原の合戦で東軍が勝利したのも西軍の小早川秀秋の裏切りがきっかけ。裏切りが日常茶飯事だったことがよく分かります。

家臣束ねられず、武田家が滅亡

勝頼の父信玄も父信虎を追放して当主の座につきました。暴君だった信虎と家臣団が激しく対立し、武田家に危機が迫っていたこともありますが、実の父親を追放したわけですから、江戸時代の武士道の精神からすると、決して許されることではないでしょう。

ただ、信玄はその後「人は城、人は石垣、情けは味方、仇は敵なり」の言葉通り、家臣団の心をつなぎとめることに気を配りました。同盟国の今川家を攻めた際、これに反対する長男義信を自害させていますが、有力武将の裏切りや反乱はなく、ライバルの謙信もその政治力に一目置いていたといわれています。

しかし、勝頼にその器量はありませんでした。武将として戦場での統率力に定評がありましたが、重臣のアドバイスに耳を傾けずに無謀な戦争と重税を重ね、家臣の心が離反していったのです。



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