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第1回 真田家の家紋六文銭、そのいわれはどこに

NHK大河ドラマ「真田丸」の放送が始まりました。第1回は織田信長の甲斐(今の山梨県)侵攻を受けた真田家とその主家である武田家の様子にスポットが当てられましたが、登場した軍勢の旗印には、各大名家の家紋が描かれていました。

戦場で出会った将兵は旗印を見て、敵か味方か判断していたわけで、戦国時代の国旗のようなものだと考えていいでしょう。有名な大名の家紋を挙げてみると、織田信長は織田木瓜、豊臣秀吉は五七桐、徳川家康は三葉葵、武田信玄は武田菱。そして真田家の家紋は六文銭です。今回は六文銭のいわれについて調べてみました。

六文銭は三途の川の渡し賃

六文銭は一般に死者が三途の川を渡るときの渡し賃だと考えられています。別名は仏教でいう六道銭。六文銭の「文」は江戸時代まで使われていた通貨の単位です。伝承では、三途の川のほとりに脱衣婆がいて、渡し賃を持たない死者が来ると、服をはぎ取るとされていました。

そこで、死者が出ると葬式のときに柩へ銅貨を六文入れるようになりました。「死者があの世でお金に困らないように」という意味が込められています。江戸時代の旅人はいつ死んでもいいように着物の裾に六文銭を縫いつけていました。戦国時代の兵士もそうしていたようです。

江戸時代までは本物の貨幣が使われていましたが、今は文という通貨単位がなくなっているうえ、火葬場の炉の中に金属を入れることが禁じられているため、六文銭を印刷した紙が使用されています。

六文は江戸中期の貨幣価値でざっと300円。50円硬貨を6つならべた感じでしょうか。ただの渡し舟なのに、阪急電車の大阪梅田駅-神戸三宮駅間320円に匹敵する料金です。三途の川の川幅は諸説があり、16キロから600キロといわれていますから、妥当な料金なのかもしれません。

真田家が鎌倉時代に分かれたとされる信濃(長野県)の豪族海野氏も、六文銭を家紋にしていました。真田家は六文銭を採用する前、雁金という紋を使っていたそうです。なぜ、六文銭に切り替えたのかははっきりしませんが、3つの説があります。

幸村のスーパーマンぶり示す伝承も

1つ目はかなり怪しい伝承です。武田家が滅亡したあと、真田勢が信濃の上田城に逃げ込もうとしたとき、北条軍と遭遇し、大軍に追撃されました。そのとき、人質になっていた上杉家から帰された幸村が計略を立て、白旗に永楽通宝を書き込ませ、北条軍を攻撃したといいます。

この話に永楽通宝が登場するのは、北条軍に永楽通宝を家紋にした重臣がいたからです。永楽通宝は中国の明で作られた銅貨で、当時の日本でも流通していました。幸村の攻撃で北条軍が裏切りを疑って混乱する中、真田勢は上田城に逃げ込めました。それで幸村の父真田昌幸が幸村に六文銭を家紋にするよう命じたとされます。

しかし、武田滅亡の直後に上田城は完成していません。幸村が上杉家の人質になったのは築城後のことですが、武田滅亡直後ではないのです。さらに幸村が人質から戻り、北条軍と戦ったという記録もありません。幸村のスーパーマンぶりを紹介するため、後世に作られた話だと考えられています。

決死の覚悟示したという説が一般的

2つ目は関ヶ原の合戦のあと、幸村が蟄居させられた紀伊(和歌山県)の九度山に残る伝承です。武田家が滅亡した1582(天正10)年、真田勢は上野(群馬県)の箕輪城周辺で北条軍と遭遇しました。真田勢300人余りに対し、北条軍は4万5,000人の大軍でした。

それにもかかわらず、幼い幸村は父に攻撃を進言。白旗に北条軍重臣の家紋である永楽通宝という銅貨を描かせて敵陣に夜襲をかけ、北条軍を大混乱に陥れたというものです。このとき、幸村はまだ子供です。伝承が残っているのは事実ですが、本当の話とはとても思えません。

最後の3つ目は六文銭が三途の川の渡し賃であることから、決死の覚悟を示したというものです。大阪夏の陣で西軍の真田幸村は敵の東軍総大将徳川家康の本陣に決死の突撃を敢行しました。そのイメージにぴったりで、一般に語られている伝承です。

ただ、真相はどうあれ、日本一とまでいわれる幸村の大活躍があったからこそ、六文銭の家紋にこんな伝承がいくつも生まれたことは間違いありません。幸村の奮闘が真田の家名だけでなく、六文銭の家紋まで天下に知らしめたのです。



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