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2.謎だらけの幼少期、心のルーツは甲斐?

四方を山に囲まれ、東西に長い逆3角系をした甲府盆地。その中央部に山梨県の県庁所在地甲府市があります。市内観光の名所となっているのが、甲府市古府中町の武田神社。祭神は風林火山の軍旗で知られる戦国大名の武田信玄です。

1919年に創建された歴史の浅い神社ですが、信玄の知名度で一気に甲府観光の人気スポットになりました。宝物殿には武田二十四将図、軍旗、鎧、刀など武田家ゆかりの品がずらりと並び、大勢の観光客を集めています。

神社が建っている場所には戦国時代、武田家の居館躑躅ケ崎館がありました。「人は城、人は石垣」の名言を残した信玄は、居城を持たず、土塁で囲んだ平地の館を本拠にしていました。周囲には家臣たちの館が並び、城下町のような形態を示していたようです。

はっきりしない出生年と出生地

真田氏は今の長野県上田市が本拠地ですが、真田幸村の出生年や出生地ははっきりしません。ただ、いろいろな歴史資料を調べていくと、甲府で生まれ育った可能性が最も高いと考えられます。

幸村の生年には、2つの有力な説があります。1567(永禄10)年と1570(永禄13)年です。真田家の重臣がまとめたとされる「左衛門佐君伝記稿」(さえもんのすけぎみでんきこう)では、1567年と記述されています。ここでいう左衛門佐とは幸村のこと。つまり幸村伝という意味です。

幸村伝は東京都立川市の国文学研究資料館に所蔵されています。ただし、幕末に編纂されたものと考えられています。真田家は江戸時代も大名や仙台藩士として続いていますが、どこまで記録が正確かは何ともいえません。

1570年生まれ説の根拠は、長野県長野市松代町にある真田家の菩提寺長国寺の過去帳です。幸村の没年、年齢が記載されており、そこから生年を逆算すると、1570年となるのです。

父昌幸が名門の武藤氏を継承

生まれた場所になると、そんな情報さえありません。ただ一つの手がかりといえるのは、幸村が産声を上げたころ、父の昌幸は真田家を離れ、武田家の親戚筋に当たる武藤家の後を継いでいたことです。当時、武藤喜兵衛と称していたのです。

武藤家は信玄の生母大井夫人につながる甲斐(今の山梨県)の豪族です。大井夫人の兄弟に当たる大井信堯が継承しましたが、1550(天文19)年に信濃(長野県)の豪族村上氏との戦いで戦死。その後、嫡男も亡くなったことから、昌幸が家督を継承しました。

父昌幸は武田信玄の小姓出身

昌幸は幸村から見て祖父に当たる真田幸隆の三男。幼少のころから信玄に小姓として仕え、甲斐で暮らしていました。1561(永禄4)年、上杉謙信と激突した川中島の合戦にも真田源五郎の幼名で従軍しています。利発さが信玄に気に入られたらしく、信濃の出身者にもかかわらず、親戚の家督を継いだと考えられています。

昌幸は1575(天正3)年の長篠の合戦で実兄2人が戦死したため、真田家に戻り、家督を継ぎますが、幸村が生まれたころは甲斐の武藤家にいたのです。幸村が幼いころに見た風景は、甲府盆地の城下町だった可能性が高いのではないでしょうか。

幸村は武藤家の次男として生まれました。母親は武田家の養女ともいわれる正室の山之手殿。幼名は弁丸、後に源次郎で、本名は信繁です。昌幸が信玄の実弟で、川中島の合戦で戦死した武田信繁にあやかって名づけたといわれています。

生前の資料に「幸村」の名が見られず

しかし、幸村の名は生前の資料や直筆の手紙に一度も登場しません。水戸黄門として知られる徳川光圀の言葉を書き残した「西山遺事」には、「真田左衛門佐を幸村と云うは誤り」と記載されています。

初めて幸村の名が登場するのは、死後50年以上が過ぎてでき上がった軍記物語「難波戦記」です。その後、兄信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の文書や、江戸幕府編さんの系譜集に幸村と表記されました。本人が生前そう名乗っていたのかもしれませんが、なぜ幸村といわれるのかは、いまだに不明なのです。

兄弟の順番が逆転した幼名

不思議なことはもう1つあります。1566(永禄9)年生まれの兄信之は、幼名が源三郎です。それなのに、次男の幸村は源次郎。長男に太郎、次男に次郎、三男に三郎とつけるのが普通ですが、なぜか逆転しています。

本当は幸村が先に生まれたが、実は正室の産んだ子でなく、母親の身分が低かったので、長男、次男の順序を逆にしたという説もあるようです。真田家では長男が早死することが多かったので、わざと順番に合わない名をつけたという人もいます。

確かに父昌幸は三男なのに源五郎。昌幸の弟信尹は四男なのに源次郎です。ただし、昌幸の長兄信綱は源太、次兄は徳次郎とつじつまが合っています。幸村の幼少期はとにかく謎だらけなのです。

祖父幸隆の時代に武田家に臣従

真田氏が武田家に仕えたのは、幸村の祖父幸隆の時代です。真田氏は北信濃の豪族で、上田市周辺を地盤にしていました。江戸時代に松代藩は清和源氏の発祥と称していますが、これはでたらめなようです。

幸隆は1541(天文10)年の信玄の父武田信虎らとの海野平の戦いで旧領を追われたあと、信濃に侵攻してきた信玄の軍勢に加わりました。信濃攻略で一夜にして戸石城を調略するなど、次々に大手柄を立てていきます。

信玄の信濃平定後は上野(群馬県)攻略に加わり、上杉方の城をいくつも落としました。同僚から「攻め弾正」と呼ばれた通り武田家きっての城攻めの名人だったのです。晩年は上野最大の拠点である箕輪城代を任されるなど、譜代の武将以上に重用されました。

武田二十四将まで出世

信玄は身分が低くても他家から流れてきた者でも、能力があれば重用していました。浪人出身で講談では伝説の軍師とされる山本勘助や、農民の子から武田四天王まで出世した高坂昌信らがそうです。これは織田信長と共通しています。

武田二十四将には信綱、昌輝兄弟か、幸隆、昌幸父子のどちらかが必ず入っています。長男の信綱は武田家家老、次男の昌輝は信玄直属部隊の指揮を任されほど信頼されていました。昌幸と信尹は人質同然で甲斐に入りながら、武藤家、和津野家という甲斐の名門をそれぞれ継承しました。

帰順してすぐにこれほど重用された一族は他にないでしょう。幸隆ら真田一族も信玄に仕えてからは、身を粉にして武田家のために働いています。手柄を立てれば必ず報いてくれる信玄に、厚い信頼を置いていたことは間違いなさそうです。

武田家全盛期に誕生

幸村が生まれたころの武田氏は全盛期でした。勢力範囲は甲斐一国のほか、信濃、駿河(静岡県東部)両国だけでなく、西上野、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、飛騨(岐阜県北部)、越中(富山県)の一部に及んでいました。

越後(新潟県)の上杉謙信とは戦場で互角でしたが、政治力で信濃や上野から追い払い、地盤を広げていきました。信玄自体が若いころを除けばほぼ連戦連勝で、戦国最強と恐れられていました。

幸村の軍勢は大阪の陣で具足や武具を朱塗りした赤備えで戦場に立っています。これはもともと、飯富虎昌や山県昌景ら武田家の武将が始めたもので、武田の赤備えとして有名になりました。幸村の心のルーツはきっと甲斐にあったのでしょう。

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