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3.武田家滅亡、激動の波に翻弄される少年幸村

長野県南西部に位置し、愛知、岐阜両県と接する下伊那郡根羽村。矢作川が流れる山間のこの村に横旗という地名が残っています。地元の伝承では、1573(元亀4)年、甲斐(今の山梨県)の戦国大名・武田信玄が病に倒れ、悲しむ家臣が風林火山の旗印を横にしたことからその名がついたとされています。

信玄はやがて亡くなります。このとき51歳。肺結核だったとも伝えられています。歴史家の間では、死亡場所は根羽からさらに北へ進んだ下伊那郡阿智村の駒場が有力とされていますが、同じ阿智村の浪合、同郡平谷村の平谷、愛知県設楽郡設楽町の田口など古文書によってまちまちです。

駒場説は江戸時代初期に書かれた歴史書の「当代記」が裏付けとされます。作者は信玄に一時仕えた三河(愛知県東部)の武将奥平信昌の子で、姫路藩主の松平忠明ともいわれています。阿智村の長岳寺には、遺品となる兜の前立2種と火葬場の伝承が残っています。

これに対し、武田家の重臣高坂昌信の口述をまとめたとされる軍学書「甲陽軍鑑」では、信玄の死亡場所を根羽としています。横旗には高さ2メートルもある信玄の供養塔が建てられています。

真田家の運命を変えた信玄の死

死の直前、信玄は破竹の勢いで快進撃を続けていました。織田信長包囲網を呼びかける室町将軍足利義昭に応え、1572(元亀3)年、西上作戦を開始。遠江(静岡県西部)の三方ヶ原で織田、徳川の連合軍に完勝し、遠江の二俣城、三河の野田城、長篠城など各地の拠点を次々に奪いました。

信長の叔母おつやの方が治める東美濃(岐阜県南部)の岩村城も戦わずに武田に寝返ってきます。信長との決戦に勝てば京に攻め上ることも見えてきた段階で、信玄は病に倒れました。まだ幼い真田幸村の運命も、これを境に一変します。

信玄の死から1年後、祖父の真田幸隆が病死しました。長男で幸村の伯父に当たる真田信綱が後を継ぎます。信玄の後継者は四男の武田勝頼でした。勝頼は勇猛さで知られた猛将でしたが、信玄配下の武将たちとは意見が対立し、家中に微妙な空気が流れていきました。

時節を見誤った勝頼の戦略

信玄は死後、越後(新潟県)の上杉謙信と結び、領国を守るよう遺言していました。しかし、勝頼は積極的に織田、徳川の連合軍と対峙する戦略を取り、諌める重臣たちと対立を深めていきます。

当時、武田の領地は山間地が中心だったのに対し、信長の勢力範囲は人口が多い近畿地方を含んでいました。信長が近畿で地盤を固めると、国力に大差がつくと焦ったのかもしれません。

豊臣秀吉が死去した1598(慶長3)年の米の生産量から動員できる兵力を推計してみます。このとき、信長の領地はざっと240万石。1万石で250人動員するとして6万人の兵力となります。これに対し、信玄が西上作戦を始めたころの武田は122万石。兵力は3万人ちょっとでしかありません。

信玄が西上作戦を展開した当時の信長は、将軍足利義昭をはじめ、越前(福井県東部)の朝倉義景、近江(滋賀県)の浅井長政、伊勢(三重県)の一向一揆衆、大和(奈良県)の松永久秀ら周囲を敵に囲まれていました。しかし、信玄の死後、これらの敵は一掃され、全軍で勝頼と向き合う態勢が整いつつあったのです。

信玄の西上作戦は絶好の機会といえますが、勝頼の作戦は時期を見誤っていたのかもしれません。勝頼は猛将ぶりを発揮して遠江の高天神城を攻略、東遠江をほぼ手中にします。さらに徳川家康の居城浜松城に迫り、城下に火を放ちました。

長篠の合戦で無残な大敗

しかし、勝頼の攻勢も1575(天正3)年の長篠の合戦で終わります。一般に伝えられるところでは、1万5,000人の兵力の武田軍に対し、織田、徳川連合軍は3万8,000人。数で劣る武田軍の突撃を連合軍が鉄砲の一斉射撃で反撃、圧倒しました。

勝頼は何とか戦場を離脱しましたが、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤ら信玄以来の重臣が、相次いで討ち死にしました。江戸時代初期の史書「信長公記」では1万人以上の死傷者が将兵に出たと記されています。これに対し、連合軍の被害はごくわずかでした。

真田家では当主の信綱とすぐ下の弟昌輝が戦死しました。幸村の父昌幸も出陣していましたが、勝頼本陣の旗本衆だったため、戦死を免れています。領国の大黒柱ともいえる重臣たちを失い、武田家は危機に陥りました。真田家もまた混乱の渦に飲み込まれます。

信綱には幼い男児がいましたが、勝頼は相続を認めませんでした。長篠の合戦に参加しなかったため、生き残った重臣の高坂昌信の推挙もあって、昌幸が真田性に戻り、後継者になります。父とともに幸村も信濃(長野県)の上田に出向くこととなったのです。

昌幸が手がけた新府城建設

しかし、武田家の命運は尽きようとしていました。財政を支えてきた黒川金山が枯渇します。謙信の跡を継いだ上杉景勝とは友好関係を結びますが、かつて同盟者だった相模(神奈川県)の北条氏政との関係は悪化していました。

織田、徳川の連合軍は東美濃の岩村城や遠江の高天神城を奪回、信濃への侵攻を準備していました。周囲を敵に囲まれた中、勝頼は家臣や民に重税を課し、鉄砲を調達するとともに、甲斐の韮崎に新府城を建設、連合軍を迎え撃とうと計画したのです。

危機に陥った中でも、昌幸は勝頼に忠節を尽くします。昌幸は勝頼より1歳年少ですが、信玄の小姓時代から勝頼をよく知っていたようです。継承したばかりの真田家所領の仕置もほどほどにして、新府城の建設に邁進しました。

新府城は釜無川と塩川が侵食して生まれた断崖の上に立ち、西側は断崖、東側は川に囲まれています。数千から数万の兵力を運用できるほど巨大な構造で、昌幸は昼夜兼行で工事を進めていたようです。

幸村はそのころ、まだ10代の前半。新府城の築城現場に来ていたかどうかは定かでありませんが、昌幸から武田流築城方を学び、後の真田丸築城に生かしたことは容易に想像できるでしょう。

三方から敵の大軍が次々に侵攻

しかし、昌幸のこの努力は実りませんでした。新府城が完成し、戦の準備が整う前に勝頼の妹婿である信濃の豪族木曽義昌が重税に怒り、織田に寝返ります。勝頼は1万5,000人の軍勢を率い、木曽討伐に向かいますが、果たせずに新府城へ戻りました。

信長の長男織田信忠率いる3万余りの軍勢が信濃高遠城を攻略し、甲斐を目指していました。信長も安土城を出陣し、美濃の岩村城で待機しています。遠江から徳川勢、関東からは北条勢が侵攻してきました。

甲陽軍鑑によると、このとき昌幸は自領の上野(群馬県)岩櫃城で迎え撃つことを進言します。岩櫃城は岩櫃山の尾根上にある要害の地。勝頼もいったん同意し、昌幸は準備のため岩櫃城へ向かいました。

武田氏が天目山で滅亡

しかし、勝頼は岩櫃城へ向かいませんでした。他の重臣の進言により、武田一門で家老格
の小山田信茂を頼ることにしたのです。信茂の支配地が新府城に近い甲斐国内だったことが決め手となったようです。

その目論見は裏目に出ます。信茂が離反したため、領内に入れず、やむなく勝頼一行は天目山へ向かいます。追っ手が迫る中、付き従う将兵は次々に逃亡。最後はわずかな手勢となり、自害しました。

主家滅亡の報は間もなく昌幸のもとへ届きました。このとき、少年幸村は何を思ったのでしょうか。激動の波はやがて幸村の身にも降りかかっていくのです。

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