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5.人質生活から青年武将へ、北条攻めで初陣飾る

江戸時代の武家屋敷や火の見櫓があちこちに残る風情豊かな街並みの向こうに、真新しい城が見えます。多数植えられた桜の木が風に揺れ、石垣が日光を受けて輝いています。長野県長野市松代町の松代城。真田幸村の足跡はこの城にも残っています。

松代は江戸時代に幸村の兄信之が上田から移封され、松代藩13万石の城下町となりました。その居城となったのが松代城。明治の廃藩置県で廃城となり、取り壊されましたが、長野市が2004年、古地図を基に櫓や城門、木橋、石垣、堀を再建しました。

本丸入口にある木橋と城門の後ろに櫓が顔をのぞかせ、まさにこれがお城という感じ。映画「のぼうの城」でロケ地になった場所です。公園として市民に開放されており、春は花見の名所として多くの人が詰めかけています。

真田丸とよく似た構造

幸村は1585(天正13)年、父昌幸が臣従した上杉景勝への人質としてこの城へ入ります。もともとこの土地は甲斐(今の山梨県)の戦国大名武田氏が支配していましたが、武田氏を滅ぼした織田信長の配下森長可が武田遺臣の反乱で逃亡し、無主の地となったところを景勝が占領していました。

松代城ももとは信濃(長野県)に侵攻してきた武田信玄が、配下の山本勘助に命じて築城したもので、当時は海津城と呼ばれていました。築城年は不明ですが、1561(永禄4)年の川中島の合戦で、信玄はこの城から出陣し、上杉謙信を迎え撃ちました。

築城当時の城の様子は不明な部分が多いのですが、丸馬出や三日月堀を備えた典型的な武田流築城術で建築されたと伝えられます。大阪冬の陣で幸村が築いた真田丸との共通点も多く、この城を参考に真田丸を考案した可能性もあるようです。

柔和で寡黙な幸村の人柄

幸村が人質になったあと、昌幸と信之父子は第1次上田合戦で徳川の大軍に圧勝し、独立大名の地位を確保しました。幸村がこの戦に加わったとする小説もあるようですが、実際には参加しなかったと考えられています。

後に信之は幸村の性格を「物事に対して柔和で、言葉は少なく寡黙。怒って腹を立てることがない」と評しました。上杉家の家臣たちは幸村を好意的に受け入れ、親しみを持って接したといわれています。

真田家歴代の系譜や事績を書き残した「真武内伝」によると、景勝も幸村を気に入り、越後(新潟県)の春日山城に招いた際、千貫分の領地を与え、人質というより上杉家の武将として遇したようです。幸村の器量を見抜いていたのかもしれません。

この年の9月、景勝は上杉配下の新発田重家の反乱鎮圧に軍を動かしますが、幸村は従軍せず、配下の矢沢三十郎が幸村の代わりに上田衆100騎を率いて新発田攻めに加わりました。

人質として今度は秀吉へ

しかし、幸村の上杉家での生活は長く続きませんでした。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が主君信長を謀反で倒した明智光秀、織田家筆頭の柴田勝家を滅ぼし、信長の後継者の地位を固めます。関白、太政大臣の地位を得たうえ、正親町天皇から豊臣の姓を受け、名実ともに天下人への歩みを進めていたのです。

幸村は1586(天正14)年、秀吉に人質として差し出されました。このいきさつについては2つの説があります。1説は秀吉に臣従するため、上洛した景勝が幸村を伴っていたところ、秀吉が幸村を気に入ったというものです。

もう1つは、景勝が上洛した隙を突き、昌幸が幸村を連れ戻して秀吉に人質として差し出したとする説です。景勝が激怒したものの、相手が秀吉とあって手も足も出なかったという後日談もついていますが、真相はよく分かっていません。

兄信之は徳川方と婚姻

幸村は大阪城に屋敷を与えられ、後に秀吉配下の大谷吉継の娘を妻に迎えることになります。しかし、秀吉のもとへ出向いたあとのことも、情報があまりありません。ただ、この経験が豊臣家との縁を深め、後に家康と対決する理由の1つとなったことは想像できるでしょう。

幸村が秀吉のところへ送られた年、秀吉は妹の旭姫を徳川家康の正妻とすることで、臣従させることに成功します。真田家は東国で豊臣家のために家康と行動を共にする大名と位置づけられ、家康との和睦も成立しました。家康は重臣本多忠勝の娘小松姫を信之の妻とし、真田家を手懐けようとしてきます。

昌幸も幸村と同様に、秀吉に魅力を感じていたと考えられます。第1次上田合戦のころから、秀吉に手紙を送り、救援を求めていました。しかし、兄の信之は昌幸や幸村と異なり、家康とのつながりを深めていきます。真田家が東西両陣営に分かれて対峙するきっかけは、このときに生まれていたのかもしれません。

名胡桃城発端に北条攻め

やがて幸村に初陣のときがやってきます。1590(天正18)年の北条攻めです。四国や九州を平定し、天下人になった秀吉に最後まで降らなかったのが、相模(神奈川県南部)の北条氏でした。

秀吉は何度も上洛を促し、臣従を求めます。これに対し、北条氏政、氏直父子は上洛を拒み、なおも関東一円の支配に固執、真田領である上野(群馬県)の沼田城をほしがっていました。秀吉は昌幸を説得して利根川より東を北条氏に譲ると譲歩し、いったんは氏政、氏直父子も納得しました。

しかし、ここで事件が起こります。北条方の武将猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を奪取したのです。名胡桃城は利根川の西。秀吉は北条氏の約束違反と怒り、北条攻めに乗り出します。領地奪回を狙う昌幸の策謀で名胡桃城奪取に至ったという見方もあるようですが、真相はどうなのでしょうか。

碓氷峠で敵中に突撃

幸村は昌幸の軍に加わり、北陸の諸侯とともに関東に進軍します。初陣は信濃、上野国境にある碓氷峠。峠には北条方の大道寺政繁が手勢を配置していました。長野市松代町にある真田家の菩提寺長国寺に残る古文書には、乱戦の中、幸村は敵中に突っ込み、混乱させるなど大活躍したと記されています。

碓井峠を突破した真田軍は、上野の松井田城、箕輪城、武蔵(東京都、埼玉県など)の八王子城、鉢形城を奪い、北条氏の本拠相模小田原城包囲に加わりました。さらに、石田三成を総大将とする武蔵忍城の水攻めにも参加しています。

やがて北条と同盟を結んでいた奥州(東北)の伊達政宗は、秀吉の参陣命令に応じてきました。支城も相次いで陥落したことから、北条氏政、氏直父子は降伏します。一連の戦いで真田家の武名は高まり、秀吉の信頼を得るようになったのです。

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