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7.紀伊九度山で蟄居、苦難の日々が続く

駅を降りると目に飛び込んでくるのは、真田の六文銭。あちこちに六文銭が入った幟が立てられているほか、駅のトイレも六文銭で案内しています。まるで真田家の故郷かと思わせるこの場所は、和歌山県伊都郡九度山町の南海電鉄九度山駅周辺。ここもまた真田幸村ゆかりの土地なのです。

幟の案内に従って散策すれば、幸村ゆかりの場所を訪ねることができます。関ケ原の合戦後、高野山での蟄居を命じられた幸村と父昌幸は、高野山の入口に当たる九度山で暮らしていました。その屋敷跡に建てられたのが善名称院という寺です。地元では「真田庵」と呼ばれ、親しまれています。

真田庵は本尊に延命子安地蔵菩薩をまつり、古くから地域のお地蔵さんとして信仰を集めてきました。春にはボタンの花が咲き乱れ、真田まつりの武者行列のゴール地点ともなっています。

近くには幸村グッズを売る直売所や、幸村がこの地に伝えたとされる信州そばの店も営業しています。どちらも六文銭マークの幟が目印。街の中を歩いても真田一色に彩られているのです。

わずか1日で西軍が敗北

第2次上田合戦で幸村と昌幸は、徳川秀忠率いる徳川の大軍に勝利します。秀忠は昌幸の時間稼ぎにまんまとはまり、関ケ原の合戦に間に合いませんでした。旧日本軍がまとめた「日本戦史」によると、東軍、西軍とも兵力は約8万人。西軍は東軍を包囲する形で布陣しており、西軍が有利と見えるようです。ここまでは昌幸の狙い通りに事態が進んでいます。

勝敗を分けたのは、東軍を率いる徳川家康と、西軍を率いた石田三成の統率力の差でした。秀忠の遅参で東軍の主力は、福島正則ら豊臣恩顧の武断派武将たちでしたが、全員が家康の采配の元、奮戦しました。

これに対し、西軍は総大将の毛利輝元が大阪城に残ったまま。三成は関ケ原に出陣した西軍をまとめきれませんでした。結局、小早川秀秋らの裏切りで西軍は総崩れとなり、わずか1日で勝敗が決しました。幸村の妻の父、大谷吉継は戦場で自害。三成は捕らえられ、京都の三条河原で斬首されました。輝元は自ら家康に申し出て、大阪城を明け渡します。

敗将として上田城明け渡し

上田での大勝利にも関わらず、幸村と昌幸は敗将となってしまったのです。関ケ原のあと、真田家と徳川方の戦闘は起きませんでした。しかし、天下は家康に手の中に収まっています。昌幸はやむなく降伏し、上田城を開城しました。昌幸の所領は東軍についた嫡男で、幸村の兄信之が受け継ぎます。

第2次上田合戦で大恥をかかされた秀忠は激怒し、幸村と昌幸の処刑を訴えました。家康も当初、死罪とする意向でした。これに異論を唱えたのが、信之と信之の舅に当たる家康の腹心本多忠勝です。

家康は忠勝の助命嘆願を受け入れ、幸村と昌幸を紀伊(今の和歌山県)の高野山で蟄居するよう命じました。幸村は故郷を遠く離れた西国の山中で失意の日々を過ごすことになったのです。

九度山に屋敷構え、蟄居生活

当時、幸村は30台の前半でした。幸村と昌幸はいったん、高野山に入りますが、すぐに九度山に移っています。九度山は高野山の入口。なぜ移ったのかはよく分かっていませんが、高野山が寒すぎたからとも、妻子を連れていたために女人禁制の高野山だと別居になるからともいわれています。

大勢の家臣を従えていたことも関係あるかもしれません。昌幸だけで付き従った家臣は16人と伝えられ、その妻子や小者も含めれば数十人の団体だったと想像できます。山上の高野山だと屋敷を構えるのが難しく、九度山になったという見方をする人もいます。

関ケ原の合戦のあと、紀伊には東軍の浅野幸長が入りました。父は豊臣秀吉の正室北政所の義弟で、五奉行筆頭だった浅野長政。関ケ原の合戦直前には、美濃(岐阜県南部)の岐阜城を攻略する手柄を立て、紀伊に国替えとなりました。徳川譜代の大名ではありませんから、九度山への移転は家康の許可を得て認めたものと推察されます。

殿様育ちで生活は困窮

蟄居生活は比較的自由に行動できたようです。幸村が大坂の陣を前に大阪城へ入城した際、九度山周辺の土豪を伴っていたことから、地元の人とも活発に交流していたことは間違いないでしょう。家臣に中で身分の高い者は、真田屋敷の隣に住まいを設け、幸村、昌幸父子を世話していたと考えられています。

しかし、生活は困窮していました。紀伊の領主浅野幸長は年間、50石ほどを支給してくれましたが、殿様暮らしが染み付いていて、それではとても足りません。信之から仕送りを受け、どうにかしのいでいたらしく、幸村や昌幸が金の無心をする手紙が残っています。

幸村が木綿を機で織った真田紐を家臣に販売させ、生活費を稼いだという話が小説などによく登場しますが、資料にはそんな記録は残っていません。江戸時代に幸村を英雄としてまつり上げるために創作された話のようです。

小説や講談に登場する昌幸は、家康打倒のため、九度山で戦略を練っていたとされていますが、これも事実とは異なる可能性が大きいと考えられます。家康の側近・本多正信に早くから恩赦の取りなしを依頼しており、下山を強く期待していました。

自堕落生活で一気に老け込む

1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きます。2年後には将軍位を嫡男の秀忠に譲り、天下を徳川家で継承していくことを世に示しました。昌幸に恨みを抱く秀忠の将軍就任で、恩赦の見込みはほとんどなくなったといえるでしょう。

昌幸は1611(慶長16)年、失意のうちに世を去ります。64歳でした。晩年は病気がちで、信之あての手紙にも自らの病状と弱気な言葉がつづられていました。最後に面会を求める手紙も出していますが、これはかないませんでした。

昌幸は江戸幕府から見て大罪人ですから、葬儀は営まれませんでした。家臣の手で火葬され、真田庵と信濃(長野県)にある真田家の菩提寺・長国寺に埋葬されたと伝えられます。小説などでは死の直前、幸村に家康打倒の策を教えたと描かれていますが、これも後世の創作と考えられています。

幸村は昌幸の死の翌年、出家して「好白」と名乗り始めます。しかし、酒に溺れる自堕落な生活を繰り返したためか、40歳を過ぎて一気に老け込みました。髪は白髪混じりとなり、歯も抜け落ちていったようです。世間に残る青年武将のイメージとは随分、ほど遠かったのかもしれません。

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