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8.幸村が大阪入城、真田丸で決戦へ

巨大な天守閣が周りのビルを見下ろすようにそびえ立ちます。周囲の景色がどれだけ変わろうと、その威容は見るものを圧倒するばかり。大阪市中央区の大阪城は築城から400年以上経った今も、大阪のシンボルとして変わりゆく大阪の街を見守っています。

豊臣秀吉が築城した大阪城は1615(慶長20)年、大阪夏の陣で落城しました。徳川幕府はその上に盛り土し、新たに城を築き直しました。それが今の大阪城です。秀吉時代の石垣はほとんどが地下深くに眠っているのです。

幕府が建てた大阪城も、1868(慶応3)年の鳥羽伏見の戦いのあと、火災で御殿など建物の大半が焼失しました。天守閣はそれ以前の1665(寛文5)年、落雷で失われています。現在の大阪城天守閣は1931(昭和6)年、市民の手で復元されたものです。

ただ、豊臣贔屓の徳川嫌いで知られる大阪市民。天守閣のデザインは江戸時代の大阪城ではなく、秀吉時代をモデルにしました。呼び名は今も「太閤さんの城」。いつの時代になっても、大阪市民にとっての大阪城は豊臣家の城なのです。

徳川家が将軍職を継承

真田幸村が紀伊(今の和歌山県)の九度山で蟄居していたころ、天下は豊臣家から徳川家へ移っていきました。徳川家康は1603(慶長8)年、征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。2年後には将軍職を辞し、嫡男の徳川秀忠が2代将軍となりました。徳川家が代々、将軍職を継承することを天下に示したわけです。

これに対し、秀吉以来豊臣家が世襲してきた関白職には、家康の推挙で九条兼孝が就任しました。秀吉の嫡男豊臣秀頼が将来、関白職に就く可能性を残すとはいえ、豊臣家は摂政、関白職に就くことができる摂家の1つに事実上、格下げされたのです。

豊臣家の領地は1600(慶長5)年の関ケ原の合戦前、全国に約220万石ありましたが、戦後は摂津、和泉、河内(大阪府から兵庫県南東部)の65万石を治める1大名となっていました。

ただ、家康は当初、豊臣家を滅ぼそうとは考えていなかったようです。秀頼に孫娘の千姫を嫁がせたほか、秀頼に京都での面会を求めています。豊臣家が臣従すれば公家として残そうと考えていたようにも見えます。

方広寺鐘銘事件で東西決戦へ

しかし、秀頼の生母淀殿が面会を拒否し、両家の緊張は一気に高まります。このとき、家康は六男の松平忠輝を大阪城に派遣し、いったん両家の融和に努めました。家康と秀頼の面会はようやく、1611(慶長16)年、京都の二条城で実現します。「祖父へのあいさつ」という名目で、豊臣恩顧の大名である加藤清正、浅野幸長に守られ、上洛したのです。

この面会で秀頼が家康に臣従したのか、対等の立場であることを示したのかは、歴史家の間で意見が分かれています。両家の緊張は緩和されたように見えましたが、天下を手中にした家康にとって、大阪城の豊臣家は次第に邪魔な存在になっていったことは間違いありません。

そして、両家の激突を決定づける事件が起きました。1614(慶長19)年の京都方広寺鐘銘事件です。豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘の銘文に家康を呪詛する言葉があるとして、家康が激怒したと伝えられています。

小説や映画では、家康が豊臣家を滅ぼすために言いがかりをつけたとされることが多いのですが、当時の常識からすると呪詛したと疑われても仕方がない文言が刻まれていました。江戸時代の歴史資料「摂戦実録」では、軽率この上ない行為だったとする東福寺、建仁寺など京都五山の僧の見解が紹介されています。

4億円の支度金で幸村をスカウト

九度山にいた幸村のもとへ豊臣家からの使者がやってきたのは、この年の秋のことです。家康が大阪追討を命じたのに対し、豊臣家は浪人を集めて対抗しようとしたのです。家康側近がまとめたとされる歴史資料「駿府記」によると、黄金200枚、銀30貫の支度金がついていました。現在の貨幣価値で約4億円になるようです。

そのうえ、徳川に勝てば50万石の領地が約束されていました。信濃(長野県)1国が41万石ですから、それより広い領地が手に入ることになっていたわけです。豊臣家からすると、幕府との一戦で味方になってくれそうな大名が見当たらず、破格の条件で浪人武将をスカウトするしかなかったのでしょう。

幸村の周囲には当時、わずかな家臣しかいませんでした。父真田昌幸の死後、大半が兄真田信之のもとへ戻っていたからです。しかし、大阪入城時には1説に100人近いともいわれる部下を伴っていました。江戸時代の古文書「鉄炮茶話」には、九度山周辺の猟師が多数、付き従ったと書かれています。

豊臣恩顧の大名も東軍に

家康は自ら参陣していなかったものの、2度に渡って徳川軍が上田城で真田軍に敗れています。真田家が甲斐(山梨県)の武田信玄に仕えていた時代には、遠江(静岡県西部)の三方ヶ原で完膚なきまでに打ち破られた苦い思い出もあります。

幸村が九度山を脱出し、大阪城に入ったと聞き、家康が震え上がったという話は、後世の創作だと思われますが、嫌な思いが頭をよぎった可能性はあるでしょう。ただ、家康率いる東軍の総兵力はざっと20万人。蜂須賀至鎮、福島正勝、浅野長晟ら豊臣恩顧の大名も東軍に加わりました。

これに対し、豊臣方の西軍につく大名は、やはりいませんでした。大阪城に入ったのは幸村のほか、長宗我部盛親、明石全登、毛利勝永、後藤基次ら浪人武将ばかり。総兵力は10万人ともそれ以下ともいわれています。幸村は浪人5人衆に数えられ、浪人兵を束ねる立場となりました。

幸村に疑惑の目を向ける豊臣家

幸村は城を出て迎え撃つ作戦を提示します。後藤基次ら浪人武将も幸村の案を支持しましたが、認められませんでした。豊臣家は幸村をスカウトしたにもかかわらず、信用していなかったのです。むしろ、東軍に寝返る可能性があるとみていた節もあります。

幸村の父昌幸は武田家の滅亡後、主家を次々に変えて生き残ってきました。幸村の兄信之は病気で出陣していませんが、信之の長男と次男が代理で東軍に加わっています。こうした点が疑いの目を向けさせる原因となったのかもしれません。

幸村はやむなく、大阪城の南側に出丸を建設することを提案します。ところが、後藤基次も同様の提案をし、両者とも譲りません。2人の間に亀裂が入りかけたころ、後藤基次は突然、築城を辞退しました。幸村が裏切り、兄信之を招き入れようと計画しているという噂が出たことに腹を立てたためともいわれていますが、真相はどうだったのでしょうか。

東軍が包囲網を狭め、幸村の眼前に

東西両軍の小競り合いは、大阪城の南西木津川口で始まります。そこには西軍の砦があり、明石全登が守っていました。兵数が少ないとみた東軍の蜂須賀至鎮は抜けがけで水陸から攻撃を開始し、守兵を追い出すことに成功します。

大阪城の東にある水田地帯では、東軍の上杉景勝、丹羽長重、佐竹義宣らが西軍の守備隊を破りました。佐竹隊は西軍の後藤基次の反撃で一時、危機に陥りましたが、上杉隊の救援で西軍を撤退に追い込みます。

さらに、城の南西にある博労淵の砦も、東軍の蜂須賀至鎮と石川和総に奪われました。その間、西軍の水軍は壊滅します。大阪城の包囲網は徐々に狭まり、幸村が築いた真田丸の周囲に東軍が迫ってきました。大阪冬の陣のクライマックス、真田丸の攻防戦がいよいよ幕を開けます。

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