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6.光る昌幸の知略、上田城で徳川の主力を足止め

うっそうと樹木で覆われた6世紀中ごろの前方後円墳・米山古墳のふもとに、古いお堂が建っています。決して大きな建物ではありませんが、色あせた朱塗りがどこか荘厳な雰囲気を漂わせます。栃木県の南西部・佐野市犬伏新町にある新町薬師堂。真田幸村にとって生涯、忘れられない思い出の場所でもあるのです。

米山古墳は丘陵そのものが古墳になっています。前方部の幅120メートル、高さ14メートル、後円部の幅235メートル、高さ32メートル、全長は県の資料だと390メートル、説明板だと336メートル。随分、大規模な古墳のようで、埴輪も出土しているようです。

幸村は1600(慶長5)年、薬師堂で父昌幸、兄信之と密談しています。豊臣秀吉の死で豊臣家は実力ナンバーワンの徳川家康率いる東軍と、反家康を掲げて挙兵した石田三成率いる西軍に分かれました。三成の挙兵を聞き、どちらにつくべきか親子3人で話し合ったのが、一般にこの薬師堂だと伝えられているのです。ただ、これには異説もあるようです。

左衛門佐の官位と豊臣の姓を手に

話を秀吉が相模(今の神奈川県南部)の北条氏を滅ぼし、天下統一した1590(天正18)年に戻しましょう。真田家は初陣を飾った幸村の活躍もあり、秀吉から厚い信頼を得ました。農民出で譜代の家臣がいない秀吉にとって、真田家は頼もしい存在に映ったのかもしれません。

秀吉時代の幸村は、秀吉配下の武将・大谷吉継の娘を正室に迎えました。吉継は三成の親友です。1594(文禄3)年に従五位下左衛門佐の官位を受けるとともに、豊臣姓を下賜されています。しかし、それ以外の動向は資料が少なく、ほとんど分かっていません。

真田家は、嫡男の信之が家康の腹心・本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎え、家康との関係を深めていました。幸村や信之の妹・於菊は三成の一族宇多頼次に嫁ぎます。当時、三成は文官として秀吉の信頼を集めていました。信之とは異なり、幸村と昌幸父子は、三成との関係が濃くなっていきます。

秀吉の朝鮮出兵で昌幸は肥前(長崎、佐賀県)の名護屋城に詰めました。名護屋城には1年半にわたって留まりますが、渡海命令がないまま、家康らとともにいったん大阪城へ戻ります。この間、領内の統治は家臣に任せていたようです。

渡海しなかった代わりに、京都の伏見城拡張工事を命じられ、指揮を取っています。この功績が認められ、昌幸も従五位下伊豆守の官位と豊臣の姓を与えられました。時期は分かりませんが、「羽柴昌幸」と名乗った文書も残っていますから、羽柴の性ももらっていたようです。

東西両陣営が天下分け目の合戦に

しかし、秀吉は1598(慶長3)年、死亡します。後継者の豊臣秀頼は当時5歳。当然ながら国を統治する能力はなく、五大老、五奉行という家臣団の集団指導体制で国政を執行することになりました。政務を指揮する五大老筆頭は家康、実務役の五奉行筆頭は浅野長政で、三成もその1人です。 

五大老の1人で秀吉の旧友だった前田利家が存命中は、スムーズに事が進んでいました。しかし、翌年に利家が秀吉のあとを追うように死亡すると、家康が事実上、全権を握り、突出した力を持つようになっていきます。

豊臣恩顧の大名間では、文官として力を発揮した三成ら文治派と、戦場で活躍した加藤清正、福島正則、黒田長政ら武断派が対立。武断派の諸大名は三成襲撃事件を起こしたほか、家康に接近していきます。

これに対し、三成は家康を快く思わない五大老の毛利輝元、上杉景勝らと関係を深め、反家康陣営を形成しました。景勝が領国の陸奥(東北地方)の会津に留まり、家康の上洛命令を無視したのをきっかけに、家康は上杉討伐の軍を起こして大阪を離れます。

三成は家康の留守を突いて挙兵しました。西軍の総大将には中国地方の雄で、家康に次ぐ領地を持つ輝元を迎えます。これに対し、家康も三成との決戦を覚悟しました。関ケ原の合戦につながる東西両陣営が対決のときを迎えたのです。

幸村と父は西軍、兄は東軍へ

幸村ら真田家父子3人の密談は家康に従い、上杉討伐に向かう途中でありました。総兵力は11万人以上と伝えられています。しかし、三成は密書で家康を弾劾するとともに、昌幸に信濃(長野県)一国を任せると連絡してきました。

話し合いで信之は家康の実力を挙げ、東軍につくべきと主張します。これに対し、三成に近い幸村や家康とそりが合わない昌幸は、西軍につく考えを示しました。結局、信之はそのまま家康のもとに留まって東軍に、昌幸と幸村は家康のもとを離れて西軍に加わることになったのです。東西いずれが勝っても真田家が残るように配慮した結果ともいわれています。

薬師堂のそばには当時、小さな橋が架かっていたとされています。橋を渡って去っていく幸村と昌幸、そしてそれを見送る信之、「犬伏の別れ」と伝えられる小説や講談で有名な場面です。このとき、幸村の胸中にどんな思いがあったのでしょうか。

このあと、上田へ戻る途中の幸村と昌幸は、信之の居城である上野(群馬県)の沼田城に立ち寄ります。しかし、信之の妻小松姫は2人を城内に迎えず、家臣の家族も城内に入れて一戦に備えたという逸話が残っています。幸村は激怒しますが、昌幸はその手腕があまりにも手際良かったため、ほめたたえたそうです。

秀忠を挑発し、上田城の攻防戦

西軍に加わるため家康の陣から離れたのは、幸村と昌幸だけだったとされています。家康は従軍する豊臣恩顧の大名たちと対応を協議したうえで、嫡男の徳川秀忠を総大将とする38,000人を中山道経由で、自らは8万人を率いて東海道を西へ向かいました。

秀忠はこれが初陣でしたが、榊原康政、本多正信ら家康腹心の武将を参謀につけ、従う兵も徳川家の主力部隊でした。これに対し、昌幸は上田城に篭っていました。秀忠はまず、信之と小松姫の弟の当たる本多忠政を使者に立て、昌幸に開城を求めました。

昌幸は返事を先延ばしにして時間稼ぎに努めます。秀忠がはっきりしない昌幸に腹を立て、催促に行くと、今度は宣戦布告してきました。参謀たちは上田城を無視して先を急ぐよう進言しますが、若い秀忠は昌幸の挑発にまんまと引っかかり、上田城攻撃を指示します。

2次上田合戦の始まりです。真田軍の兵力はざっと2,500人。10倍以上の戦力を持つ秀忠の軍勢が負けるとは思えなかったのでしょう。

秀忠は信之に命じ、幸村が守る砥石城攻撃を命じますが、幸村は城を明け渡して上田城に入りました。信之はそのまま、砥石城の防衛に努めます。幸村と昌幸は親子、兄弟が直接刃を交える事態を避けようとしたのかもしれません。

地の利を生かし、寡兵で大軍を圧倒

江戸時代にまとめられた家康の歴史書「烈祖成蹟」によると、第1次上田合戦と同様に、昌幸の軍略が徳川軍を圧倒します。秀忠が昌幸の思惑を図りかねていたとき、真田軍が急に動きました。上田城下で収穫間近の稲を刈り取っていた徳川方に攻撃を仕掛けてきたのです。

しかし、反撃するとあっさり退却し、城へ戻ります。徳川方が大手門まで追撃すると突然、門を開いて鉄砲の一斉射撃で真田軍が反撃に転じました。敵の大軍を狭い城の近くへ引き込み、少ない兵を集中して反撃するという昌幸の軍略です。城に押し寄せた徳川軍は散々に打ち破られました。

この前夜、幸村はこっそり城を出て、兵とともに近くに潜んでいました。大手門付近の徳川軍が壊走を始めると、秀忠本陣向け突撃を開始します。秀忠は家臣の馬に乗り、慌てて退却しました。わずか1日の合戦で徳川軍は大打撃を被りました。

結局、秀忠は上田城攻略をあきらめ、西へ向かいます。しかし、関ケ原の合戦には間に合いませんでした。昌幸の知略が徳川の主力部隊を足止めし、東西の決戦に遅参させる結果になりました。上田城での徳川との一となったのです。

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