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4.昌幸の知略で大軍を破る 第1次上田合戦

春は千本桜まつり、秋はケヤキ並木紅葉まつり。長野県上田市二の丸にある上田城は1年中、多くの観光客や市民でにぎわっています。今は上田城跡公園として整備され、市のシンボルになっています。

この城はもともと、真田幸村の父昌幸が築城し、2度に渡って徳川の大軍を迎え撃った古戦場です。1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦のあと、一度破壊されました。現在の城は江戸時代に上田藩主となった仙石氏が再建したものです。

櫓、石垣、土塁、堀などがあり、国の史跡に指定されていますが、幸村の時代をしのばせるものは、櫓門横の真田石、西櫓前の真田井戸などごくわずかしか残っていません。それでも市民は幸村を地元の英雄として称えています。

目まぐるしく主家変える

1582(天正10)年、主家の武田氏が滅亡したとき、昌幸は上野(今の群馬県)の岩櫃城にいたとされます。要害の地であるこの城に武田勝頼を迎え、織田、徳川の連合軍を迎え撃とうとしていたからです。

しかし、勝頼は岩櫃城には向かわず、甲斐(山梨県)の天目山で命を落とします。恐らくすぐに昌幸にも情報が届いたでしょう。昌幸は直ちに真田家の生き残りに向け、動き始めます。その手法とは状況に応じて次々に主家を変えていくことでした。

武士道とは1人の君主に仕え続けることと考えられています。しかし、この考えは江戸時代に定着したものです。戦国時代は家臣が主君に取って代わる下克上が当り前。信頼できる主君なら忠節を尽くすが、そうでないなら見限って当然と考えられていたのです。

昌幸にとって、幼少時から小姓として仕えた武田信玄は忠節を尽くすべき主君と映っていたのでしょう。岩櫃城で織田、徳川の大軍と決戦しようとしていたのですから、信玄の後継者勝頼に対しても、忠節を誓っていたはずです。

しかし、武田家が滅んだ以上、周囲はかつての敵国ばかりになりました。一時的に従ったとしても、忠節を尽くすべき主君とは考えていなかったのでしょう。真田家が生き残るにはどうすればいいのか、考え抜いた結論がこの方法だったのです。

混沌とする天下の情勢

昌幸がまず従ったのは、織田信長でした。武田家を滅ぼした張本人ですが、実力は最強。天下統一も近いと考えられていました。しかし、武田家滅亡からわずか3カ月後、信長は本能寺の変で横死します。家臣の明智光秀が謀反を起こしたためでした。

光秀もすぐに信長の家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、命を落とします。天下の行方は一気に混沌としてきました。その影響は昌幸と幸村のもとにも及んできます。

旧武田領の甲斐を治めていた信長の腹心・河尻秀隆は農民と武田遺臣の反乱で死亡しました。信濃(長野県)の統治を任されていた森長可、毛利秀頼らは、美濃(岐阜県南部)へ逃走しました。甲斐、信濃は無主の地となったのです。

旧武田領は遠江(静岡県西部)の徳川家康、相模(神奈川県南部)の北条氏政、越後(新潟県)の上杉景勝から狙われました。昌幸は信濃の旧武田家臣を取り込み、地盤を固めようとします。このころの幸村の情報はほとんどありません。この混乱は少年幸村の目にどう映ったのでしょうか。

本拠の上田に新城を建築

織田家臣のうち、上野に留まっていた滝川一益が北条氏に敗れると、昌幸は一益を諏訪まで送り届けました。一益が本領の伊勢(三重県)に戻り、上野も無主の地になったのを確認すると、叔父の矢沢頼綱に命じて要衝の沼田城を奪い、幸村の兄で嫡男の信之を岩櫃城に置いて防備を固めます。

上杉景勝が北信濃に攻め込んでくると、すぐに臣従しますが、わずか半月後には北条氏政の子氏直の侵攻を受け、北条方に鞍替えしました。しかし、2カ月後には突如、徳川家康に降り、北条方についた信濃の豪族を攻め始めます。

1583(天正11)年には、本拠地の上田に千曲川周辺の抑えとする新城建設に着手しました。これが現在の上田城の始まりです。家康の援助を受け、城は急ピッチで建設されたと伝えられています。

沼田城めぐり家康と対立

しかし、家康は北条氏直と結び、信長の後継者となった秀吉に対抗する意思を固めました。その条件が真田領となった沼田城の割譲。これに対し、秀吉は上杉景勝と接近し、家康に対抗しました。

昌幸は沼田城に代わる所領を家康から示されなかったことに反発し、再び上杉景勝に従う意向を固めます。小国が生き残るためとはいえ、わずかな間にこれだけ主君を変えるのですから、まさに目まぐるしいほどの変わり身の速さです。

幸村はこのとき、人質として上杉家に向かうことになりました。1585(天正13)年のことです。幸村は真田家の故郷に腰を落ち着ける間もなく、北信濃の海津城へと旅立って行ったのです。

この間、昌幸は北信濃と西上野で地盤を固めていきます。小牧長久手の戦いのあと、秀吉と和睦した家康は、昌幸の裏切りを許さず、7,000人の軍勢で上田城に攻め込んできます。対する真田勢は農民兵を含めてわずか2,000人。第1次上田合戦の始まりです。

少兵で徳川の大軍を圧倒

徳川の軍勢は、鳥居元忠、大久保忠世らが率いていました。家康は姿を見せませんでしたが、面目を潰されたと怒り、「根切り(皆殺し)肝心」と殲滅を命じていたと伝えられます。信濃と上野で一定の地盤を固めたとはいえ、真田家に徳川家と対抗する力はないと見くびっていたのかもしれません。

これに対し、昌幸は上田城に本陣を構え、近くの砥石城に信之、矢沢城に矢沢頼康と上杉の援軍を入れ、農民兵を山に伏兵させました。武田信玄から「わが両眼のごとし」とたたえられ、小信玄の異名を受けた昌幸の采配はさえ渡ります。

真田家に伝わる「真田軍記」によると、兵に押されているふりをさせ、わざと二の丸へ誘い込むと、徳川の大軍が渋滞して身動きがとれなくなりました。そこへあらかじめ用意していた巨木や大石を落下させ、鉄砲の一斉射撃を加えたのです。

徳川軍は次々に打ち倒され、慌てて退却を始めますが、後続部隊が城内へ侵入しようとしていたため、鉄砲の格好の的になってしまいました。ようやく場外へ脱出した徳川勢を待ち受けていたのは、城下町の火事でした。真田軍が火をつけたのです。

さらに大混乱となった徳川軍に砥石城の信之の手勢と、山に伏せていた農民兵が襲いかかりました。徳川軍はようやく近くの神川までたどり着きますが、神川が異様に増水していたため、溺れ死ぬ兵士が相次ぎました。この増水も昌幸の策だったという説があります。

周囲も認める念願の独立大名に

徳川軍の死者は1,300人以上と伝えられます。これに対し、真田軍は40人ほど。少ない数で大軍を打ち倒すにはどうすればいいのか、昌幸の練りに練った知略が徳川軍を打ち負かしたわけです。その後、しばらくは小競り合いが続きましたが、家康の重臣石川数正が秀吉に寝返る事件が起き、徳川軍は退却しました。

江戸時代初期に書かれた旗本大久保彦左衛門の「三河物語」には、「ことごとく腰が抜け果て、震えて返事もできず、下戸に酒を強いたるがごとし」と記されています。徳川方も認める大敗北だったわけです。この戦いの結果、真田氏は独立大名として認められました。

一見、篭城戦のように見えるこの戦いは、城を舞台に大軍に接近戦を展開しています。少ない兵を集中運用し、地の利を最大限に生かしました。後に幸村が大阪冬の陣で実践した真田丸での戦い方と発想がよく似ています。

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