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9.幸村の知略冴え、真田丸で東軍を圧倒

河底池に架かる和気橋を渡り、樹木が茂った対岸へ向かいます。橋の上から天王寺動物園越しに見える鉄塔が、大阪名物の通天閣。実はこの和気橋、2006年のNHKの朝ドラ「芋たこなんきん」に出会いの場所として登場した地元では有名な場所なのです。

橋を渡った先が大阪市天王寺区の茶臼山。山というよりは小高い丘という感じです。5世紀ごろに造られた前方後円墳とされ、大阪府の史跡に指定されています。といっても、誰を弔ったのかは分かっていません。古墳よりも大阪冬の陣で東軍の徳川家康、夏の陣で西軍の真田幸村が本陣を置いた場所として知られています。

橋を渡ると、頂上へ向かう急な石段が待ち構えています。頂上は平らな広場になっていますが、街灯とベンチぐらいで特に何もありません。冬の陣ではこの丘の上から家康が北を、夏の陣では幸村が南を眺めていました。そのとき、両雄はどんな思いを胸に抱いていたのでしょうか。

包囲網を狭める東軍

家康率いる東軍は、大阪冬の陣の緒戦で西軍の砦を奪い、水軍を壊滅させました。残るは西軍の篭る大阪城だけ。約20万人といわれる大軍で四方から大阪城を取り囲みます。これに対し、大阪城内にいる西軍は10万人ともそれ以下ともいわれる兵力しかありませんでした。

幸村が武田流築城術で生み出した真田丸は、大阪城のすぐ南にあります。大阪城は城の三方に川や堀、湿地帯があり、大軍が城攻めするのに難しい地形でしたが、南側だけは土地が開け、大軍が陣を置くのに適していました。真田丸は最前線で東軍の大軍と向かい合っていたわけです。

家康は真田丸の南西にある小高い丘の茶臼山に本陣を置きました。家康の嫡男で将軍の徳川秀忠は真南の岡山にいます。家康父子と真田丸の間には、藤堂高虎、前田利常、松平忠直、井伊直孝、伊達政宗ら東軍の主力部隊が配置されていました。

真田丸正面にいる東軍の兵力は約2万人、真田丸すぐ西側の八丁目口、谷町口にも約2万人。これに対し、真田丸に篭る幸村の手勢は約5,000人しかいませんでしたが、赤備えの鎧に身を固め、意気盛んだったと伝えられています。

真田隊の一斉射撃で前田隊潰走

家康は真田丸の真正面にいる前田利常に塹壕を掘り、土塁を築いて城の包囲に努めるよう命じました。しかし、前田隊が作業に入ると、近くの篠山に伏兵していた真田隊が一斉射撃し、妨害します。これが連日続き、前田隊には100人ほどの死者が出たようです。

真田隊の妨害で作業が遅々として進まないことに腹を立てた前田隊は、夜陰にまぎれて篠山を奪取しようと企てました。前田隊が攻め上ると、真田隊は既に退却したあとで、篠山はもぬけの殻。夜が明けると真田隊が前田隊をさんざん馬鹿にしました。

怒った前田隊は攻撃命令のないまま、勝手に真田丸へ殺到します。幸村の挑発にまんまと乗り、1614(慶長19)年12月4日、いよいよ真田丸の戦いが開始されました。前田隊が城壁に取り付くのを待って、真田丸から一斉射撃が始まります。

前田隊に真田丸攻略の予定がなかったため、鉄砲対策の竹束や盾は用意されていませんでした。紀伊(今の和歌山県)の九度山から幸村に従って入城した猟師らが、城壁を登ろうとする前田隊の兵士を的確に打ち倒していきます。前田隊を最前線で指揮していた奥村栄頼も銃撃を受け、重傷を負いました。

前田隊の将兵から見れば、真田丸は大阪城のすぐ外側に孤立した小さな出丸と見え、見くびっていたのでしょう。しかし、待ち受けていたのは武田流で築かれた堅牢な要塞でした。前田利常は慌てて退却命令を出し、部隊を篠山まで下げましたが、甚大な被害を受けました。

真田丸には幸村の真田隊だけでなく、長宗我部盛親の部隊も入っていたという説があります。後藤基次の側近が「真田丸は真田と長宗我部が半分ずつ守備していた」と語っているらしいのです。真相は不明ですが、孤立しているように見える真田丸と大阪城で綿密な連携があったことは確かなようです。

東軍の被害1万人とも

真田丸の戦いを見た八丁目口、谷町口の井伊直孝と松平忠直は、大阪城南側の外柵を破り、空堀に兵士を潜ませました。そのとき、城内で爆発音がしたのです。城内で裏切りを約束していた南条元忠の合図と勘違いした東軍は、八丁目口と谷町口に殺到しました。

しかし、南条元忠は既に裏切りがばれ、切腹させられていました。爆発音の原因は西軍の兵士がただ単に火薬箱を落としただけだったと伝えられています。西軍の後藤基次は東軍の動きを見て近く総攻撃があると推察し、万全の防備を八丁目口と谷町口で固めていました。

大阪城内からは西軍の木村重成らが一斉射撃を井伊隊、松平隊に浴びせかけます。真田丸からも狙い撃ちを受けました。さらに幸村の嫡男真田大助が軍を率いて混乱する東軍に襲い掛かります。東軍が反撃しようとすると、真田隊は真田丸へ戻り、また鉄砲の一斉射撃が飛んできました。

戦いは昼ごろまで続き、西軍に被害がほとんどなかったのに対し、東軍は真田丸と八丁目口、谷町口の戦いで死傷者1万人以上ともいわれる大被害を受けました。幸村の知略が東軍を物の見事に打ち破ったのです。地の利を生かして大軍を追い返したのは、幸村の父真田昌幸が2度にわたって上田城で徳川軍を破ったのと同じ手法といえるでしょう。

力攻め避け、包囲に専念

家康は自ら使者を出し、各部隊に後退を命じました。まず、徳川譜代の大名である井伊隊が退却し、それに続くように他の部隊も後方へ退きます。家康と秀忠は各部隊の将を呼び、厳しく叱責しました。

翌5日、西軍の織田長頼の部隊が味方同士でけんかを始めた隙に、東軍の藤堂高虎の部隊が大阪城内へ侵入します。しかし、近くにいた女性や子供も石を投げて抵抗するうちに西軍の長宗我部盛親の部隊が駆けつけ、藤堂隊は退却しました。

その後、家康は力攻めを避け、包囲に専念します。城に篭った西軍は浪人やキリシタンの寄せ集め兵士が多かったのですが、幸村ら諸将がうまく統率し、士気の高さを保っていました。無闇な攻撃は無駄と判断したわけですが、この判断が西軍に傾きかけた戦況を覆すことになります。

西軍に不利な条件で和睦

家康は英国やオランダから大砲を取り寄せ、大阪城内を砲撃する作戦に切り替えます。西軍を心理的に揺さぶり、有利な条件で講話に持ち込もうと考えたようです。江戸時代に書かれた史書「当代記」によると、西軍の塙直之が東軍の蜂須賀至鎮の部隊を夜襲し、戦果を挙げましたが、次第に戦況は東軍に傾きます。

家康の側近本多正純と西軍で織田信長の実弟織田有楽斎が手紙を交換し、和睦交渉を始めました。豊臣秀頼の生母淀殿は当初、「大阪城は10年篭城できる」と豪語していましたが、東軍の大砲が本丸を直撃し、侍女が相次いで死亡するのを見て、和睦に踏み切ります。

条件は二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋め立てることなどが挙げられました。これを受け、家康は秀頼の身の安全と所領の安堵、城中の将兵を不問とすることを約束しました。大阪城を裸城とする代わりに豊臣家の存続を約束する内容です。幸村ら浪人武将は和睦に賛成しませんでしたが、その声は届きませんでした。豊臣家の最期がいよいよ近づいてきました。

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