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10.真田日本一の兵、家康本陣を崩す幸村最後の戦い

大阪夏の陣で真田幸村が布陣した茶臼山のすぐ北側、通天閣や四天王寺を望めるビルの谷間にこじんまりした神社が建っています。土が盛り上がり、うっそうと木が茂るさまはまるで古墳のよう。大阪市天王寺区の安居神社は、幸村終焉の地として知られる場所です。

安居神社は安井天満宮、安居天神などとも呼ばれています。創建年は不明ですが、平安時代に菅原道真も訪問したとされ、かなり古くからこの地にあったようです。祭神は少彦名神(すくなびこな)と菅原道真。江戸時代から桜の名所として多くの人を集めていました。

境内には、腰を下ろして休憩する幸村の銅像と戦死跡の石碑があり、今も供物が絶えません。銅像の幸村はどこにでもいそうな初老の男性で、青年武将のイメージとは程遠いのですが、まっすぐに前を見てどこか威厳を感じさせます。豊臣家への義に殉じた幸村のイメージを表現したのでしょうか。

東軍15万の大軍で再び大阪へ

大阪冬の陣が和睦で終わったあと、徳川家康は駿府へ、将軍の徳川秀忠は京都伏見城へいったん戻りました。京都所司代から豊臣家に不穏な動きがあるとの報告が届くと、家康は大阪城にいる浪人の解雇か、豊臣家が大阪城を出て他の場所へ移るかの二者択一を迫ります。

豊臣家はこの要求を拒否しました。家康は直ちに諸大名に京都の鳥羽、伏見に集結するよう命じます。1615(慶長20)年4月、京都に東軍15万人以上が集結しました。家康は軍を2手に分け、河内路、大和路から大阪城へ向かうよう命じ、自らも京都を出発します。

これに対し、西軍は大阪城が堀を埋められて裸城となった以上、勝ち目なしと判断した多くの浪人が退去し、兵力は8万人足らずに減っていました。東軍との和平交渉をしていた織田有楽斎も豊臣家に見切りをつけ、大阪城を退去します。

河内路、大和路で相次ぐ敗北

西軍としてはもはや篭城策を取ることはできず、野戦で東軍を迎え撃つしかありませんでした。大野治房の部隊が東軍についた筒井定慶が守る大和(今の奈良県)の大和郡山城を落とし、東軍の兵站基地となっていた堺を焼き討ちしました。しかし、和泉(大阪府南部)の樫井で行われた東軍の浅野長晟隊との合戦で壇直之が討ち死にし、痛い敗北を喫します。

5月に入ると、東軍の主力部隊が河内路と大和路から大阪へ進軍してきました。河内路では藤堂高虎、井伊直孝ら東軍の先鋒約5万5,000人と木村重成、長宗我部盛親らが率いる西軍約1万人が激突します。

八尾では長宗我部隊が藤堂隊を奇襲し、大打撃を与えて撃退に成功しました。しかし、若江では木村重成が井伊隊との混戦の中で討ち死にしました。長宗我部盛親は敵中での孤立を恐れ、やむなく大阪城へ退却します。

大和路では幸村と後藤基次、毛利勝永らが2万人足らずの兵力を率い、東軍の松平忠輝、伊達政宗、水野勝成らが率いる約3万5,000人と交戦しました。東軍が河内平野に入ろうとするところを隘路で迎え撃とうとしたのですが、後藤隊以外の到着が遅れ、孤軍奮闘の末に後藤基次が戦死してしまいます。

幸村は午後になって戦場へ到着し、敗走する西軍の兵士を吸収しながら前進し、伊達隊と交戦、これを撃退します。このあと、毛利隊と合流し、東軍とにらみ合いになりますが、八尾若江の敗報を聞き、いったん大阪へ退きました。

幸村らが戦場に遅参した理由は、小説や講談では霧のためと伝えられていますが、真相は分かっていません。先発の後藤隊が西軍の陣容が整うまで時間稼ぎをする計画だったのに、東軍の進撃が早く、対応できなかったという説もあります。

最前線で3倍の兵力と対峙

東軍は大阪城の南方に集結し、ざっと15万人の大軍で天王寺と岡山方面から攻め寄せてきました。これに対し、迎撃に出た西軍の兵力は3分の1の5万人ほど。天王寺方面は茶臼山に幸村、四天王寺南門前に毛利勝永が陣取ります。岡山方面は大野治房を主将としました。このほか、木津川堤防沿いに別働隊の明石全登が布陣しています。

西軍の作戦は、東軍を四天王寺周辺の狭い丘陵地に引きつけて順次、叩く一方、敵の戦線が伸びきって本陣が手薄になったところを明石全登の別働隊が急襲するというものでした。全軍の士気を高めるため、総大将の豊臣秀頼も出陣することになっていました。

幸村は冬の陣と同様に最前線に布陣しています。障害物のない野戦ではとても勝ち目がないとされる1対3の兵力差ですが、幸村は抜群の知略と統率力で奮闘するのです。戦いは東軍の先鋒で、幸村の兄真田信之の妻の弟本多忠朝と、西軍の毛利勝永の間で火蓋が切られました。

家康の馬印を引き倒す猛攻

幸村は3,500人ほどの兵力で約1万3,000人の松平忠直の部隊と交戦していましたが、四天王寺付近で毛利隊が大活躍します。本多忠朝を討ち取り、東軍先鋒部隊を潰走させたばかりか、榊原康勝ら2番手、3番手も壊滅させたのです。これで家康の本陣が丸出しとなりました。

松平忠直はこのとき、真田隊との交戦を避け、大阪城方面へ移動しようとします。幸村はこの一瞬を見逃しませんでした。浅野長晟が寝返ったとの虚報を流し、東軍を混乱させると、松平隊を突破し、家康本陣へ3回にわたって突撃をかけます。

三方ケ原で武田信玄に敗れて以来、倒れたことのなかった家康本陣の馬印が引き倒されました。旗本は恐れおののいて四方へ離散、家康も馬に乗って逃げ出します。江戸時代に書かれた島津家の伝承記「薩摩旧記」には「真田日本一の兵、徳川方は半分敗北。家康が切腹も考えていた」と記されています。

家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記「高山公実録」には「御旗本大崩れ」と書かれ、家康の行方が一時分からなくなったとされました。家康の旗本大久保彦左衛門が記した「三河物語」には「旗本が混乱して家康を見捨てて逃亡した」と書かれています。

安居神社で無念の戦死

しかし、幸村は家康を討ち取ることはできませんでした。数で勝る東軍が徐々に反撃を展開し、幸村は茶臼山の北にある安居神社に退き、休憩を取ります。そこを松平隊の兵士に襲われ、討ち死にしたのです。

真田隊の壊滅で西軍の戦線は維持できなくなり、毛利隊も大阪城へ退却します。出陣しようとしていた秀頼のもとにも敗報が届き、秀頼は生母の淀殿とともに自害しました。幸村の嫡男大助も秀頼と運命をともにしました。

秀頼の子の国松は潜伏しているところを捕らえられ、処刑されました。娘の天秀尼は仏門に入ることを条件に助命されましたが、これで秀吉以来の豊臣家は滅亡したのです。これにより、徳川の天下は磐石となりました。

後世で讃えられた幸村の武功

幸村の一族はその後、どうなったのでしょう。次男の守信は伊達家の家臣片倉家に保護され、後に仙台藩士となりました。三男幸信は三好姓を名乗り、出羽亀田藩士となっています。四男の之親は讃岐(香川県)に逃れ、石田家の養子となったと伝えられています。

兄の信之は大阪の陣の後、信濃(長野県)の上田から松代に移封されました。真田家は明治の版籍奉還まで大名家として存続します。幸村の武名とともに、真田の血は後の世まで受け継がれていったのです。

幸村は江戸時代、数々の書物や文書でその知略と武功を讃えられ、英雄視されました。幸村の活躍を描いた講談も人気を博し、日本人の心を揺さぶり続けます。江戸時代が終わり、日本が近代国家となってからも小説、映画、ドラマでたびたび取り上げられてきました。

そして今、NHK大河ドラマ「真田丸」でまた注目を浴びようとしています。義に殉じ、知略と武略に秀でた幸村の生き様が、人々の心を捉えて離さないのでしょう。

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