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1.伝説になった幸村の名、その舞台の真田丸を行く

2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」。主人公は、大阪の陣で徳川家康率いる大軍を相手に大活躍し、「真田日本一の兵」と呼ばれた真田幸村です。本名は真田信繁。真田氏はもともと、戦国時代最強といわれた甲斐(今の山梨県)武田氏の家臣ですが、武田氏の滅亡後、豊臣氏に仕え、最後まで忠節を守り通しました。

真田丸は大阪冬の陣で幸村が築いた砦で、真田丸の攻防戦で幸村の名は全国にとどろきました。幸村を演じるのは、TBSドラマ「半沢直樹」で売れっ子俳優となった堺雅人さん。宿敵の徳川家康は人気俳優の内野聖陽さんが演じます。脚本は劇作家で映画監督の三谷幸喜さん。放映前から期待が高まる大河ドラマの主人公・幸村の足跡をたどってみましょう。

関西きってのコリアンタウンとして全国に名を知られた大阪市東部の鶴橋地区。生野区、天王寺区、東成区が交差する場所にあり、焼肉の匂いが漂う下町情緒あふれた場所です。その玄関口ともいえるJR大阪環状線の鶴橋駅からコリアンタウンと反対の北西へ向かいます。

道路は駅の西側から少し上り坂になります。この辺りには、大阪市の東部を南北に走る上町台地が通っています。北は大阪市中央区の天満橋付近で、南は住吉区の苅田付近。南北12キロにわたって幅2、3キロの細長い台地が続いているのです。

最高地点は大阪城天守閣跡の38メートル。決して高くはありませんが、台地上には桃山、夕陽丘、帝塚山など大阪市内有数の高級住宅街が並びます。大阪の陣では、東軍総大将の徳川家康が茶臼山、西軍の幸村が真田丸と、2人の英雄がともにこの台地上に陣取りました。

各所に残る幸村ゆかりの地

玉造筋を北へ歩くと、すぐ目に飛び込んでくるのが、天王寺区の真田山公園です。この辺りは大阪の陣で幸村の軍勢が東軍相手に奮戦した場所だと伝えられます。旧陸軍の騎兵第4連隊が置かれていた場所を1939年に公園としました。

現在は天王寺スポーツセンターや真田山プール、野球場、テニスコートが置かれ、市民の憩いの場所になっています。北側には明治時代の西南戦争から第2次世界大戦までの戦没者5,300余柱をまつった旧陸軍墓地が整備されています。

近くに心眼寺という寺があります。幸村と長男の大助父子を弔うため、江戸時代初期に建てられました。寺に残る由緒書きには、真田丸の東端だったと記載されています。どうやら知らず知らずのうちに、幸村ゆかりの地に400年の時を越えて足を踏み入れていたようです。

本物、偽物? 真田の抜け穴

お目当ての場所は、心眼寺から少し東、天王寺区の宰相山公園にある三光神社です。創建は仁徳天皇の時代とされますから、5世紀の前半には建てられていたことになります。大阪七福神の1つであり、中風除けの信仰でも知られています。

一般には真田丸の跡地だといわれてきました。甲冑姿で軍勢を指揮する幸村の銅像と、幸村が掘ったとされる大阪城への抜け穴が残されています。穴の入口には「真田の六文銭」の文様が入った鉄の扉で閉ざされていますが、大阪城には通じていません。

真田丸の中心部はもっと西側の大阪明星学園付近と考えられ、三光神社周辺は真田丸の外側だったかもしれないのです。となると、大阪城攻略のために徳川の軍勢が掘ったものか、後世に造られたものである可能性も否定できません。

築城法は旧主君の武田流

ここでもう一度、真田丸について振り返ってみましょう。真田丸は大阪城南側に突き出すような形で築かれた砦です。東西180メートルの半円形と伝わっていますが、遺構が残っておらず、もっと大きかったという説もあります。

三方に堀や塀を配し、外側に3重の柵を設けていました。後方に大阪城への通路があり、虎口と呼ばれる出入り口は両サイド。敵兵がここへ向かうと、真田丸と大阪城両方から射撃できるようになっていました。

砦の形状を半円形にし、その外側に三日月型の堀を設ける築城法は、幸村の父昌幸が仕えた武田家の流儀。防御と反撃に適した形で、戦国時代最強と恐れられた武田家の兵法を幸村が受け継ぎ、実践した格好となりました。

地の利を生かし、篭城戦へ

大阪の陣は1614年の冬の陣と、翌15年の夏の陣と2度あり、豊臣氏が滅亡しました。真田丸の攻防戦があったのは冬の陣。徳川家康率いる東軍20万人に対し、豊臣方の西軍は浪人やキリシタンを中心に10万人とも、それ以下ともいわれる兵力しか集まりませんでした。

幸村は当初、近畿地方を制圧したうえで、東軍を近江(滋賀県)で迎え撃とうと提案しました。西軍が豊臣家健在を見せつけ、東軍を足止めしている間に諸大名を味方につけようと考えたようです。

同じ浪人の後藤基次、毛利勝永らも幸村案を支持しましたが、豊臣家宿老の大野治長らは篭城戦を主張、東軍を疲弊させて有利な講話を結ぼうと画策します。結局、幸村案は退けられ、篭城戦と決まりました。

真田丸で南方の弱点補う

大阪城は北、東、西の3方向を川や堀、湿地帯で囲み、万全の防備を誇っていました。しかし、南側の上町台地沿いは防備が弱く、これを補うために真田丸が築かれたと、これまで考えられてきました。

真田丸に入った幸村の軍勢は5,000人ほどでしたが、巧みな戦術におびき寄せられた東軍は、加賀(石川県南部)の前田利常、上野(群馬県)の井伊直孝、越前(福井県東部)の松平忠直らが率いる2万6,000人が次々に攻めかかりました。

しかし、城壁に取り付いたところで真田丸と大阪城内からの一斉射撃を受けます。大軍の東軍は大混乱に陥り、退却もままならずに大きな損害を被りました。死傷者数は諸説あり、定かではありませんが、1万人以上という説も出ています。

攻撃拠点と考える新説が登場

これが、これまで歴史の定説とされてきた真田丸のストーリーです。しかし、それを覆す新設も登場しています。防御の弱点を補うのではなく、攻撃のための拠点だったとするもので、奈良大学の千田嘉博学長(城郭考古学)が提唱しています。

江戸時代に広島藩主だった浅野家に伝わる「浅野文庫諸国古城之図」には、大阪城と真田丸の間に深い堀と崖があり、簡単に行き来できない構造に描かれています。大阪文化財研究所と大阪歴史博物館による最新の等高線調査でも、崖の存在が発見され、地図の記載が裏付けられました。

東軍がこの地形を見れば、孤立無援の砦を弱点と見て、一気に攻めようと考えるでしょう。幸村の狙いは戦の常識に反した背水の陣で東軍の主力をおびき寄せ、その隙に他の西軍武将が攻撃を仕掛けようとしたのかもしれません。

幸村の知略が大きな成果に

援軍のない篭城戦に勝機なしというのが、戦国時代の常識でした。幸村はあえて接近戦を仕掛け、打ち破るしか西軍に生き残る術はないと考えていたようにも見えます。結局、一時和睦となり、決着は夏の陣に持ち越されますが、幸村の知略に家康をはじめ、東軍が恐れおののいたことは間違いありません。

信濃(長野県)で2度にわたって徳川勢を撃退した父昌幸、三方ヶ原の戦いで織田、徳川の連合軍に完勝した昌幸の主君・武田信玄。彼らの知略を受け継いだ幸村の常識を超えた戦略が、かつてこの地で大きな成果を上げたのです。

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